夏侯淵
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夏侯淵(かこうえん、ピンイン;Xiahou Yuan、162年?-219年)は、中国、後漢末の武将。字は妙才。曹操と夏侯惇の従弟に当たる(演義では夏侯惇の弟と設定)。正妻は曹操の妻の妹(一説では丁氏とも)。戦場においては急襲戦を得意とした名将で、その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた。
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[編集] 略歴
[編集] 生涯
曹操が県の長官の件で罪を受けた時その身代わりとなった事がある。黄巾の乱の時に曹操が兵を挙げると、兵を率いて随行し、やがて陳留・穎川の太守に任命された。
官渡の戦いの後は、兗州、豫州、徐州の兵糧を取り仕切り、袁紹の勢力の排除で功績を挙げた。
馬超・韓遂との戦の時、初めは負け戦が多かったが、その敵の勢いを避け、その後ろにいる羌族を攻め、韓遂軍を打ち破り、見事に涼西を平定した。
建安20年(215年)、漢中の張魯が曹操に降伏すると、漢中の守備を任され、征西将軍になった。
その後、劉備との陽平関を巡る戦い(218年~219年)に破れて、戦死した。
『蜀書』・黄忠伝によれば、建安24年(219年)定軍山で夏侯淵は黄忠の軍に大敗を喫し、斬られたとある。
諡は愍(びん)侯。
[編集] 演義での夏侯淵
『演義』では、曹操の親族として早くから登場し、剛直な猛将で弓術に長けていた。張郃とペアを組むことが多かった。定軍山の戦いにおいて法正の策を受けた黄忠によって討ち取られた。彼の戦死を聞いた曹操は嘆き悲しみ、激怒したという。