飯田武郷
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飯田 武郷(いいだ たけさと、文政10年12月6日(1828年1月26日)-明治33年(1900年)8月26日)は、幕末・明治期の国学者。東京大学教授。高島藩出身。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。通称は彦介のちに守人、号は蓬室。
高島藩士・飯田武敏と同藩士飯島義道の娘・諦子の子として江戸・芝の高島藩江戸藩邸に生まれる。はじめ、服部元済に儒学を学ぶが、本居宣長の著書を読んで感激して国学を志す。だが。宣長も平田篤胤も既に病死しており、そこで篤胤の実子・平田鉄胤の許しを得て篤胤の死後の門人となり、鉄胤に国学を学んだ。後に和歌を海野游翁に学んだ。嘉永5年(1852年)26歳のときに『日本書紀』の注釈を志して「日本書紀通釈」の執筆を始める。その後、尊王攘夷運動に参加、慶応2年(1866年)に家督を長男・武夫に譲って京都に上り、岩倉具視の元に寄食する。戊辰戦争では、甲府城攻撃に参加するも、落城後に攘夷実行のために横浜攻撃に向かうもこれを知った明治政府の怒りを買って免ぜられ、更に故郷に立ち寄ったところ相楽総三が処刑されるところに出会わせて、密かに首級を奪って葬った。こうした事情から次第に明治新政府と疎遠となり、皇学所に務めるも程なく郷里に帰り、廃藩置県後は各地で宮司を務めた。
明治9年(1876年)に改めて大教院に召され、後に国史編纂事業に参加する。明治13年(1880年)以後東京大学をはじめ、慶應義塾・國學院などで古典を教えた。明治30年(1897年)眼病を理由に教職を辞すると、以後「日本書紀通釈」の完成に全力を注ぐ。そして、明治32年(1899年)執筆開始から48年目にしてようやく完成した。武郷74歳の時の事である。だが、翌年三重県の皇學館への講演旅行の途中、深酒が原因と見られる心臓病の悪化で倒れる。そのまま、牛込区内の自宅に運ばれたものの、間もなく病没した。