顕証寺
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顕証寺 | |
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山門 |
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所在地 | 大阪府八尾市久宝寺4-4-3 |
山号 | |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | |
創建年 | 1470年(文明2年) |
開基 | 蓮如 |
別称 | 久宝寺御坊 |
文化財 |
顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。久宝寺御坊ともいう。 寺の東側に立派な山門がある。また、かつて周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。
[編集] 歴史
- 飛鳥時代に、聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。しかし、いつしか廃寺となってしまった。
- 1469年(文明元年)、近江近松に蓮如が顕証寺を創建し、最初は長男順如、その死後は6男蓮淳に住事させる。これは後の本願寺派近松別院となる。この寺号は、後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれる。その証拠として、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。
- 1470年(文明2年)に、蓮如上人が久宝寺跡に「西証寺」を建立した。後に「顕証寺」と寺号を改めた。
- 戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、1541年(天文10年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、近くにある久宝寺城主の安井氏がこの権利を委されていた。
- 戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、1606年(慶長11年)、一部の住人は、安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、大信寺(八尾御坊)を中心に八尾寺内町を作った。
- 1614年(慶長19年)から1615年(元和元年)にかけて徳川氏と豊臣氏が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。
- 現在の本堂は江戸中期・1716年ごろに再建されたとの記録がある。
- 江戸時代ごろは、八尾街道の中継地として栄えたが、1704年(宝永元年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は八尾寺内町に移っていった。
[編集] 周辺情報
- 近鉄大阪線 久宝寺口駅
- JR大和路線 久宝寺駅
- 八尾市立久宝寺中学校
- 八尾市立久宝寺小学校
- 長瀬川
- 大阪府道2号大阪中央環状線
- 大阪府道5号大阪港八尾線
- 大阪府道173号大阪八尾線
- 久宝寺緑地
[編集] 外部リンク
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