陽のあたる場所 (映画)
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陽のあたる場所 A Place in the Sun' |
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監督 | ジョージ・スティーヴンス |
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製作 | ジョージ・スティーヴンス |
脚本 | マイケル・ウィルソン ハリー・ブラウン |
出演者 | モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー シェリー・ウィンタース |
音楽 | フランツ・ワックスマン |
撮影 | ウィリアム・C・メラー |
編集 | ウイリアム・ホーンベルグ |
配給 | パラマウント映画 |
公開 | 1951年8月14日 ロサンジェルス |
上映時間 | 122分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
制作費 | 229万ドル(当時) |
興行収入 | 350万ドル(米国内) |
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陽のあたる場所 (映画) (A Place in the Sun)は1951年製作の米国映画。
第24回アカデミー監督賞(ジョージ・スティーヴンス)、脚本賞(脚色部門:マイケル・ウィルスン、ハリー・ブラウン)、編集賞(ウィリアム・ホーンベック)、音楽賞(劇・喜劇映画音楽賞:フランツ・ワックスマン)、衣装デザイン賞(白黒部門:イーディス・ヘッド)を獲得した作品である。
1931年にジョセフ・フォン・スタンバーグが監督したセオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」の再映画化である。主人公以下の名前をはじめ、原作とは違った点が多いが、独立した映画作品としてみると、我々の人間の弱点を深く追求した作品ということができる。
内心にひそむ打算のために引きずり回され破滅にいたる青年はいつの時代にもいるだろうが、映画においてこれほどつきつめて描かれたことはかつてなかった。
映画は、道路に立ってヒッチハイクをしている主人公の青年な背中から始まる。彼は叔父が経営する工場の派手な看板に目をとめる。一人の美しい少女(アンジェラ)を乗せた自動車が通り過ぎる。それらをみつめる彼の目には憧憬と羨望が入り交じっている。このファーストシーンで、作品の主題は明らかにされる。これは自分の憧れている世界へ入り込もうとして破滅にいたる青年の悲劇なのである。そして、アウトサイダー(「よそ者」)の悲劇というのは、終生監督ジョージ・スティーヴンスの描き続けたテーマでもある。
[編集] ストーリー
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
主人公のジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は貧しい家に育ち、シカゴでホテルのボーイをしている時に、偶然に出会った叔父の言葉に従い、伝導事業に携わっている母親を残して水着工場のある町へ行く。
叔父の工場に雇われたジョージはよく働いて認められるが、女工のアリス(シェリー・ウィンターズ)と関係を持つようになる。彼女は教養もない貧しい娘である。やがて、彼は金持ち娘のアンジェラ(エリザベス・テイラー)に会う。環境のせいでわがままに育てられているが、非常に純真な美少女で、二人はたちまち愛し合うようになる。彼にしてみると、彼女と結婚することは憧れの上流社会の仲間に入れることである。
ところがアリスが妊娠する。あわてた彼は堕胎させようとするが、医者はうけつけてくれない。結婚をせがむ彼女を誤魔化した彼は、アンジェラの別荘へ行く。あとを追ったアリスは近くの町から電話をかけて彼を呼び出し、すぐ結婚してくれるよう迫る。せっぱつまったジョージは、登記所が休日なのを幸い、彼女を湖に誘い出し、ボートに乗せる。そして殺そうと思うが、どうしても殺せない。しかし、彼女が立ち上がったため、ボートは転覆し、彼一人辛くも岸に泳ぎ着く。
当局は、彼を逮捕する。ボートを借りたときに偽名を使ったことなどから、計画的な犯行とみられ、検事(レイモンド・バー)のすざまじい論告で死刑の判決が下る。ジョージは自分が殺したのではないと言い続ける。しかし、監房を訪れた母の言葉から、直接手を下さなくても心にアリスの死を願っていた以上、やはり殺人と同じ罪を犯したことになると悟り、素直に自分の罪を認め刑場へひかれていく。
[編集] 分析
ジョージは打算的だが、極めて平凡な青年である。栄誉に憧れているが、根っからの悪人ではない。青年らしく無計算で、いくら利口に立ち回ろうとしても大きなミスをする。それがアリスとの関係である。どうせあとで負担になるに決まっている彼女と深い交渉は持たなかったろう。そして、最後には殺すことを考える。このような性格をモンゴメリー・クリフトが演じたことが、成功の一因であろう。
特筆すべきはジョージ・スティーヴンスの演出である。彼はすぐれた映像と編集技術を用いてすぐれた描写を試みている。開幕ジョージが叔父の家へ行くことから一つ一つのショットに意味を含め、画面としての美しさと伏線的な役割を同時に生かしているのであるが、以下も細かく神経を使った場面の連続である。たとえば、パーティの夜、アンジェラとジョージが愛情を告白し合う場面では、踊りながらクローズアップが感情の激してゆく経過を遺憾なく伝え、小声で囁いていることに耐えられなくなった彼女が小走りにベランダへ連れ出すところなど、恋愛感情の最も優れた描写のひとつであろう。詩的でしかもリアルな作品を演出しているのである。
また、この作品について語るには、まだ17歳だったエリザベス・テイラーとシェリー・ウィンターズの好演がある。エリザベスの可憐な美しさと恋愛感情の表現、シェリーのいかにも口べたで粗野と思われる演技は、二人とも今までのイメージを脱却することに成功している。この二人とモンゴメリー・クリフトとトリオをなして、このみじめな青春劇の光と影を織りだしている。また撮影のウィリアム・C・メラーの深い調子や編集の見事さも作品の情感にふさわしい。
[編集] エピソード
- この主題は、1906年妊娠している女友達を殺害したチェスター・ジレットの実話に基づいている。彼は裁判を受け、実刑判決が下り、1908年処刑された。実際の被害者グレース・ブラウンの幽霊がニューヨークの州北部の彼女が住んでいた家に出るそうである。
- 1925年に出版されたセオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」が原作である。
- パラマウント映画は、すでに1931年セオドア・ドライサーの小説を原題「アメリカの悲劇」とし公開しており、再映画化は気が進まなかった。再映画化できたのは、映画化したくない態度を示していたパラマウントを、ジョージ・スティーヴンスが契約不履行で裁判に訴えたからである。
- シェリー・ウィンターズはアリス役でテストされ決定した。彼女は元々洗練されたセックス・シンボルであった。しかし、彼女は髪を茶色に染め、みすぼらしい恰好で衣装部に働いている女の子たちを訪ねた。彼女は意図的に会議の前に到着し、部屋の隅に座った。スティーブンスがそこを訪れ、そこから出るまで、彼女とは気がつかなかった。彼は隅に座っているおとなしい女の子がシェリー・ウィンターズだったと知って、彼女を採用した。
- ジョージ・スティーヴンスはたびたび、この作品でのテクニカラーの使用について言及したが、この映画の内容を考慮すると全く不適当であるため、白黒作品となった。
- 興行的には大失敗に終わった「アメリカの悲劇」の1931年版に対して製作者たちは違ったタイトルを付けようとした。いいタイトルを付けた者には100ドルの懸賞金が掛けられたが、ジョージ・スティーヴンスの製作者補のイワン・バファットが『陽のあたる場所』を出してきて採用した。彼は懸賞金の100ドルは受け取らなかった。
- 1949年終わりには撮影が終了していたのだが、映画の公開は1951年まで延びた。