ジョージ・スティーヴンス
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ジョージ・スティーヴンス(George Stevens、1904年12月18日-1975年3月8日)はアメリカ合衆国の映画監督。
寡作で有名な監督であるが、『陽のあたる場所』(1951)と『ジャイアンツ』(1953)で2度のアカデミー監督賞、また1953年度のアーヴィング・タールバーグ賞を獲得した。
カリフォルニア州オークランド生まれ。5歳の時から父の旅回り一座で舞台に立ち、21歳で映画カメラマン助手となる。ローレル&ハーディの短編喜劇でカメラマンを務めた後、1930年には監督に昇格した。
キャサリン・ヘプバーン主演『乙女よ嘆くな』(1935)、アステア&ロジャーズの『有頂天時代』(1937)は成功を収め、以来名監督の誉れが高くなる。1939年の『ガンガ・ディン』は『インディ・ジョーンズ』シリーズを思わせる冒険活劇として、近年再評価の声が高い。第2次世界大戦中は陸軍通信隊の撮影班で活躍した。
彼の他の代表作としては『シェーン』(1953)、『アンネの日記』(1959)、『偉大な生涯の物語』(1965)などがある。
1975年3月8日、心臓麻痺により死去。
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[編集] その生涯と作品
ジョージ・スティーヴンスは映像の構成に関しても一流の審美眼を持ち、しかも俳優たちから繊細な表現を引き出しながら、細部まで作り込む職人監督であり、クラシックなハリウッド映画を作り上げた映画監督の中でも、ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラー、ハワード・ホークスに並ぶトップ・クラスの監督である。大衆娯楽という面を持ちながらも、映画に神話詩的な要素を持ち込んだ。ハリウッド史上最も賞賛と尊敬を受けた監督の一人である。スティーヴンスの作品にはコメディでもミュージカルでもドラマでも底辺には彼独自のヒューマニズムが流れている。
しかし、映画は工業的な手順で制作されるので、「原作者」に帰属するのは非常に難しく、また現実にそうすることも難しかった(米国監督協会(DGA)で交渉して契約の中に契約上の保証を入れてもである)。だが、すでにジョージ・スティーヴンスは彼の映画をコントロールしていた。1960年代の作品は「作家主義」ではないと批評家にあざ笑われていたが、スティーヴンスはすでに作家であった。それはスティーヴンスの映画が非常に多くの細部への気配りがなされており、完全主義的な場面の実現性と多重的に生み出される巧妙で革新的な編集で実現している。スティーヴンスの映画は説得力のある奥行きと親密さを俳優の希な演技で生み出している。スティーヴンスの典型的な映画は米国社会に充ち満ちている、アメリカン・ドリーム追求の年代記なのだ。
ジョージ・スティーヴンスは、アカデミー監督賞に5回ノミネートされ、2回受賞、6本の自身で制作・監督した作品がアカデミー作品賞にノミネートされた。1953年に彼は高い制作の品質を維持した功績で、アーヴィング・G・タールバーグ賞を受賞した。彼は1958年から1959年まで米国映画芸術科学アカデミー(AMPAS) の会長を務めた。スティーヴンスは米国監督協会の最優秀映画監督賞を3度受賞し、D.W.グリフィス生涯栄誉賞も受賞した。彼は5本の文句なしのクラシック映画を製作している。フレッド・アステア-ジンジャー・ロジャース主演のミュージカル『有頂天時代』(1936)、興奮させられる冒険物『ガンガ・ディン』(1939)、男性と女性の争い『女性No.1』(1942)、クローズアップと編集の使用で新しい地平を開いた『陽のあたる場所』(1951)、西部劇の形をとりながらもその技法を合わせて、ジャンルの枠を越えてしまった『シェーン』(1953)である。『愛のアルバム』(1941)、『希望の降る街』(1942)、『ママの想い出』(1948)、『ジャイアンツ』(1956)もトップランクに入る映画だろう。
[編集] 映画界に入るまで
ジョージ・クーパー・スティーヴンスは、1904年12月18日カリフォルニア州オークランド生まれで、役者であったランディス・スティーヴンスと彼の妻で女優であるジョージー・クーパーの間に生まれた。両親は劇団を持っていて、サンフランシスコのベイ・エリアで開演していたが、一家でパフォーマーとしても西海岸をツアーして回った。この劇団のレパートリーの中には古典劇もあり、若いジョージにも演ずるチャンスがあり、演劇の進行の構造や観客への働きかけ方などを学んだ。1922年スティーヴンスの両親は演劇を離れ、一家はロサンジェルスへ移住した。ジョージと彼の兄ジョン・ランダース・スティーヴンスはカリフォルニア州グレンダールの南へ行き、映画制作の仕事を見つけた。
スティーヴンスの両親は映画会社からいろいろと配役がついた。ランディスは『犯罪王リコ』(1930)、『民衆の敵 』(1931)、『市民ケーン』(1941)などで小さな役を演じた。伯父のアシュトン・スティーヴンス(1872-1951)はシカゴ・ヘラルド・アメリカン紙の演劇評論家で、後にウィリアム・ランドルフ・ハーストのサンフランシスコ・エグザミナー紙に雇われた。アシュトンはスティーヴンスにバンジョーの弾き方を教えた。アシュトンは映画スターや有名人にインタビューを行い、その中には若いオーソン・ウェルズがいた。アシュトンは『市民ケーン』(1941)で演劇批評家リーランドのモデルになった人物である。母方の叔母であるオリーヴ・クーパーは短期間俳優になった後、映画脚本家になった。彼らの2番目の息子ジャックは映画カメラマンになった。
スティーヴンスの脚色による『ママの想い出』(1948)は1910年頃のサンフランシスコに同化しようとするノルウェー人の移民した一家の話であるが、1922年頃にロサンジェルスに移住したスティーヴンス一家のドラマとして見ることができる。この映画では20世紀の最初の四半世紀に疎外心を感じる一家を描いた。若いジョージは高校をやめさせられてオーディションに連れていかれた。彼は疎外心をとても感じていただろう。彼は学問の埋め合わせに、演劇や文学、新たに出てきた映画について学んでいる。
[編集] ハリウッドに入って
ハリウッドに着いて間もなく、スティーヴンスはハル・ローチ・スタジオでカメラマン助手として働き始めた。それは、いい時にいい経験をさせてもらった。その時代はちょうど映画というメディア自体が若かったのである。スティーヴンスは回顧している。「組合なんかもなくて、その気になればカメラマン助手でも映画が撮れた時代だった。組織もなくてカメラマンの助手もいなくたって、知らんぷりだったね。」
ハル・ローチの会社では、スティーヴンスは映画技術がどんどん進化していく間、視覚だけで物語を語る技術を学んでいった。彼の視覚的な教育の結果は低予算の西部劇を撮るのに役に立った。2年間はスタン・ローレルとオリバー・ハーディ主演のコメディ映画の撮影監督兼ギャグの脚本家になった。
彼の最初のローチ・スタジオのカメラマンとしてのクレジットは、ローレル&ハーディの短編であった。スティーヴンスは恐るべきキャメラマンであった。最も有名なコメディの短編(サイレント映画でもトーキー映画でも)はカメラマンとしての力量が如実についていることが分かる。ジョージ・スティーヴンスの根底にあるものはヒューマニズムであり、そして人物の詳細や振る舞いを語ることに集中し、キャラクターと観客間の関係を明快にすることに集中した。この芸術的な始まりは、ローレル&ハーディのコメディである。彼はここで「観客」と「俳優」との関係の相互作用について学んだ。信頼性はいつでもスティーヴンスの映画の品質であるが、それはローレルとハーディのコメディから学んだのだった。オリバー・ハーディの言うところの、「俺たちは映画の中で馬鹿なことを散々やってきたが、俺たちはいつも本気だったんだぜ。」ということである。
[編集] 人気監督になって
撮影監督からユニヴァーサル映画に移ったローチと共に短編映画の監督として昇進した。1933年RKOに移り、コメディ映画の長編を作り始めた。彼が一気にブレイクするのはRKOが1935年に制作した『乙女よ嘆くな』(1935)で、主演のキャサリン・ヘプバーンが直々にスティーヴンスを指名したのだった。ブース・ターキンソンの原作は中流階級出の若い女性が地位を向上させようとするというテーマで、中流階級の幸福への強い願望と欲求不満を表そうとした。アメリカン・ドリームを夢見ることは彼の全作品に共通している。後に1970年代末にアウトサイダー(「よそ者」)を描いた作品が出る前、すでにスティーヴンスの「よそ者」は、他人との決して成功しない人間関係の中で曖昧とか疎外感と闘ってきたのだ。
1936年にRKOはスティーブンスに彼の最初のクラシック映画となるアステア-ロジャースのミュージカル『有頂天時代』の監督を任せた。スティーヴンスは過去カメラマンの経験があったのでこのミュージカル・コメディに工夫された映像を見せようとした。カメラの撮影する範囲以外にもスティーヴンスは観客に感情的な効果を上げようと思いついたのだ。アステアが鏡のドアを開けるシーンがあるが、このシーンの反射を実際にカメラで撮っている。こうして観客を映画のシーンに感情的に入れ込むようにし向けたのだ。これはバスター・キートンが『キートンの探偵学入門』(1924)でスクリーンの中で歩き回るシーンと対照的である。『有頂天時代』のライティングも大胆である。彼は自由にライトをシーンに持ち込んだ。これはシーンを活気づけようとしたのであり、明るいタッチを与え、最後のシーンは背景に「日光」が写り込んでいるようにした。完成した映画は決して引きずることなく二人のダンシング・チームが素晴らしい見せ物になっている。ロジャーズはアステアと組んだ中で一番のお気に入りの作品ということであった。
スティーヴンスの次のクラシック作品はキプリングの詩を元にした活気のある冒険ほら話『ガンガ・ディン 』(1939)である。もはや21世紀となって政治的には正しくないが、映画は活劇の表現や俳優たちの活躍、特に英国の3人の軍曹、ケーリー・グラント、ヴィクター・マクラグレン、ダグラス・フェアバンクスJr.が19世紀インド植民地下での有名な死のカルト教団を鎮圧するまでを描いた。
サイレント映画での即興的な環境で彼の映画制作を学んだので、スティーヴンスは脚本が不十分だと実際の撮影や編集も不完全なものになることを言明していた。スタジオ側が広大な規模を望めば望むほど1930年代では映画撮影が彼らが以前経験したのより制作費は高額なものになった。スティーヴンスの方法ではRKO幹部の会計士を困らせることになった。彼の『ガンガ・ディン』の即興的な演出のために撮影スケジュールが64日から124日になり、200万ドル以上この映画につぎ込まれた(ほとんどトーキー映画で500万ドルを売り上げることはなかったので、消極的に見積もっても2倍から2.5倍の収益が必要であった)。
スタジオの幹部たちはスティーヴンスの方法では制作が困難になることがわかっていた。たとえば、それより後年の『シェーン』(1953)は撮影して編集が終わるまで1年がかりであった。彼の作品はどれも成功しているのだが、1930年代後半から彼の作品は自身がプロデューサーをつとめ、セシル・B・デミルやフランク・キャプラの様な一握りの例外を除いて、投資した資本の数倍を収益として挙げていた。彼は1940年代初め頃、3つの意義深いコメディ作品『女性No.1 』(1942)やより暗いトーンの『希望の降る街』(1942:市民権と裁判の誤審を描いた作品)、"The More the Merrier"(1942)が完成する前に戦場へ向かった。
[編集] 第2次世界大戦にて
スティーヴンスは陸軍通信隊へ入隊して、1944年から1946年まで撮影隊の一員として活躍した。彼の部隊はノルマンディー上陸作戦やパリ解放、ダッハウ強制収容所の解放、戦後のニュールンベルグ裁判の記録映画や戦後の非ナチス化のための教育プログラム映画を制作した。スティーヴンスはこれらの業績により殊勲章を獲得した。多くの批評家が指摘するように、第二次世界大戦を境にしてスティーヴンスの作風がひどく憂鬱なトーンになったのは、戦場を間近に見た恐怖の結果である。スティーヴンスの最初の妻であるイボンヌは、彼が「とても神経過敏になった。彼は決して夢を見ないけれど、彼は志願して戦場に行ったのだということを確信したわ」と回顧している。
スティーヴンスはイボンヌに1945年にあてた手紙にはこう書いている。「君の手紙を読まなければこちらには何も喜ぶものはない…なぜなら、私にとって信じられない光景が目の前にあるからだ。」
戦後、戦争とダッハウ強制収容所のイメージとがスティーヴンスに絶えずつきまとった。しかし、映画の制作ということが、社会にとって意味あることだとも確信した。通信部隊の友人となったフランク・キャプラやウィリアム・ワイラーとで、リヴァティー・フィルムを設立し、彼の人間観を描くようになった。偉大な戦前の全作品からの持ち越した題材が、彼の人間愛をヒューマニズムの象徴として、主な登場人物のキャラクターとして表現するようになった。
[編集] 『陽のあたる場所』
彼の戦後の2番目である作品『陽のあたる場所』(1951)は、セオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」を現代アメリカに置き換えてスティーヴンスなりに脚色した作品である。彼のファミリー・ドラマ『ママの想い出 』(1948)より3年後、アウトサイダー(よそ者)であるジョージ・イーストマンがアメリカン・ドリームという網にひっかかり、その追求で彼は死刑になるのを招くのだ。昔、セルゲイ・エイゼンシュテインがパラマウントに「アメリカの悲劇」の脚色版を書いたことがあった(そのタイトルも抜け目なく『アメリカン・ドリーム』)。しかし、エイゼンシュタインの参加は共産主義者を雇ったということで右翼からスタジオを攻撃されるということで却下された。その少し後、米国政府はエイゼンシュタインを強制送還させたのであった。彼の脚本はあっさりゴミ箱入りになり、結局ジョセフ・フォン・スタンバーグが最終的に映画化したが、彼の映像はドライサーから遠いものであり、著者はスタジオを訴えた。この作品は、再編集され批評的にも興行的にも完全に失敗に終わっていた。
アルフレッド・ヒッチコックはたやすく、そこそこの原作や出来の悪いドラマや原作本をいとも簡単に出来の良い映画に仕上げる力量を維持していた。スティーヴンスは文芸作品の傑作をハリウッドではユニークなトリックで映像化したのであった。テクニックにクローズアップという方法があるが、『陽のあたる場所』ではチャールトン・ヘストンが指摘したように、スティーヴンスはクローズアップを多数行っている。彼は1950年頃の普通の映画より頻繁にクローズアップを多様し、編集でゆっくりしたディゾルヴ(溶暗)を組み合わせた。独特の雰囲気が醸し出され、それがジョージ・イーストマンの世界であることが観客にも理解できる。彼が夢の中の女性を抱擁するときも、漕ぎ船の中で運命的な一日になる時もである。編集では、スロー・ラッピング・ディゾルヴ(前のシーンと後のシーンとを時間をかけて両方同時に重ね繋ぐこと)は上映時間が経つにつれ長くなり、映画の進行につれ、後になるほど最初から無いようなワンシーンの長さになってしまうのである。
スティーヴンスの映画に対する熟練した技は彼の最初のアカデミー監督賞として誰もが認めた。巷では『陽のあたる場所』か、エリア・カザンの『欲望という名の電車』が作品賞を獲るだろうと思われていたが、スタンリー・ドーネンとジーン・ケリーが組んで作った『パリのアメリカ人』が鼻の差でゴールに入ってしまった。MGMの広報部はアカデミー作品賞獲得後にトレードマークのライオンがこういうのを広く認めさせた。「私は太陽の出る時電車を待つ…」
[編集] 絶頂期
スティーヴンスのアウトサイダー(「よそ者」)へのテーマは彼の次のクラシック作品『シェーン』(1953)でも現れている。名前通りのガンマンがアウトサイダー(「よそ者」)であり、しかしスターレット一家では彼に農夫と同じ位の労働で家庭の防御を頼むし、牧場主も農夫にとっては「よそ者」だし、農夫のコミュニティでも人間の品の良さは「よそ者」である。『ジャイアンツ』(1956)ではエドナ・ファーバーのテキサスに関する小説を3時間に広げ、やはり「よそ者」の姿を描いている。義理の姉であるラズ・ベネディクト、雇われる身ながら百万長者になる石油業者ジェット・リンク、湖水地方に移住して開拓民になる美しいレスリー・ベネディクトと2人の反抗的な子供たち、ひいては彼女の夫であるビック・ベネディクトはステレオタイプなテキサス人であり、最後に偏屈さを脱してメキシコ人に敬意を払い人種差別に対抗して物理的に闘うことを決意する「よそ者」に変身する。アンネ・フランクと同胞の人々の隠れ場での生活を描いた『アンネの日記』(1959)は、米国映画史上初めてホロコーストを描いたのも彼女がアウトサイダーだからである。『偉大な生涯の物語』(1965)は、キリストが捕らえがたい複雑で究極のアウトサイダーであった。『この愛にすべてを』(1970)はエリザベス・テイラーと組んだスティーヴンスの遺作となり、『陽のあたる場所』(1951)、『ジャイアンツ』(1956)の主演女優だったにも関わらず歳を食ったコーラスガールを演じ、ケチなギャンブラーとの2人の「よそ者」が主演していた。
この長年忘れられたアウトサイダー(「よそ者」)を近年画面に復活させた者がいる。クリント・イーストウッドであり、作品は『許されざる者』(1992)を挙げておけば十分であろう。
[編集] 晩年まで
スティーヴンスの名声は1950年代の後に悩ます要因になり、1960年代中途半端な映画を作らせることは出来なかった。長い休止のあと、制作された作品は真価を認めてもらえず正当な評価を受けなかった。『偉大な生涯の物語』(1965)はキリストの情熱と奉仕について述べた映画であり、最後の大作映画であった。批評家には認められず、興収も散々であった。この映画はスティーヴンスの即興演技が犠牲になり始めた作品でもあった。アカデミー作品賞とアカデミー監督賞にノミネートされた『アンネの日記』(1959)より『偉大な生涯の物語』(1965)が公開されるまで6年間経過した。この映画には長い準備期間が必要であり、難しいショットもあり、デヴィッド・リーンがいくつかのシーンで補助していたと思われていた。
この映画は巨大に見えて、多くの映画批評家は魂の視覚的な表現よりもむしろ空虚として真価を認められないでいた。スティーヴンスの脚本は3つの福音書、特にヨハネによる福音書に霊感を受けて書いたのである。ヨハネは自身と物事の間に横たわる知識を強調していた。だが批評家たちは公開時に真価を認められなかったが40年後の現在、作品はより高く評価されている。スティーヴンスは映画の名手でありディゾルヴ(溶暗)の採用と感情に訴える音響の利用は、『陽のあたる場所』(1951)よりも徹底している。
彼の最後の作品となった『この愛にすべてを 』(1970)は批評家には余り受けなかったが、興業成績は良かった。エリザベス・テイラーは1970年代初めには急激にスターとしての地位が下降していった。フランク・シナトラは彼女の共演として候補に挙がっていたが、彼はワンテイクで済む監督の方を好み、噂通り何度もテイク撮りするスティーヴンスのやり方は二の次であった。スティーヴンスの撮影法は考える限りのあらゆる角度から、多数の焦点距離から撮影するのが彼の基本的な技法であった。それを編集の際に彼が選び抜いて繋いでいくのが彼の方法であった(ジョン・フォードはそれと逆に映画に必要だと思われるショットのみ撮影し、事実上カメラの中で編集作業を行っていた)。ウォーレン・ベイティをうまくコントロールできずに、撮影中概ね失望させられ、シナトラの代わりとしては下手だということが分かった。映画は完成したが長きにわたり上映されずに、しかも公開されてもスティーヴンスの汚点として残った。
[編集] 主な監督作品
- 愛の弾丸 -Annie Oakley (1935)
- 乙女よ嘆くな -Alice Adams (1935)
- 有頂天時代 -Swing Time (1936)
- 偽装の女-Quality Street (1937)
- 踊る騎士(ナイト)-A Damsel in Distress (1937)
- ガンガ・ディン -Gunga Din (1939)
- 愛のアルバム -Penny Serenade (1941)*監督 /製作
- 希望の降る街 -The Talk of the Town (1942)*監督 /製作
- 女性No.1 -Woman of the Year (1942)*監督
- ママの想い出 -Woman of the Year (1948)*監督
- 陽のあたる場所 -A Place in the Sun (1951)*監督 /製作
- 生きるためのもの -Something to Live For (1952)*監督 /製作
- シェーン -Shane (1953)*監督 /製作
- ジャイアンツ -Giant (1956)*監督 /製作
- アンネの日記 -The Diary of Anne Frank (1959)*監督 /製作
- 偉大な生涯の物語 -The Greatest Story Ever Told (1965)*監督 /製作 /脚本
- この愛にすべてを -The Only Game in Town (1970)*監督のみ
カテゴリ: アメリカ合衆国の映画監督 | 1904年生 | 1975年没