陳公博
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陳 公博(ちん こうはく、1892年10月19日 - 1946年4月12日)は、中華民国の政治家。
広東省の官宦の一家に生まれる。父親は広西提督を務めた。北京大学に学び五四運動に参加、マルクス主義や社会主義に触れる。1920年に大学を卒業すると陳独秀らの指導の下中国共産党のオルグとして活動、翌1921年の中共一大会議に参加するが早くも共産党から脱党する。
共産党脱党後に渡米し、1925年コロンビア大学で修士号を取得。帰国後に中国国民党に入党し、廖仲愷や汪兆銘と共に国民党左派として活動する。北伐が始まると蒋介石や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し武漢国民政府に参加。武漢国民政府解散後は張発奎・李済深と共に抵抗を続けるが1927年には香港へ亡命する。翌1928年に上海へ赴くが、国民政府に対して反主流的な言動を取り続ける。
満州事変勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが1936年に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。1938年に汪共々重慶を脱出し、対日和平を模索。1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年に汪が死去すると政府主席代行・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
戦後日本へ逃亡するがバー・モウが新潟県で連合国軍に拘束されると、鳥取県に潜伏したことが発覚して逮捕。1946年に漢奸の罪名で死刑判決を受け、蘇州で処刑される。