阿波野秀幸
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阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半~1990年代)の元プロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。神奈川県横浜市旭区出身。同期の西崎幸広とはトレンディーエースと呼ばれライバルだった。
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[編集] 来歴
- 高校は横浜市立桜丘高等学校、大学は亜細亜大学で、大学の同期にパンチ佐藤、一つ後輩に元中日の与田剛がいる。
- 1987年 読売ジャイアンツ、横浜大洋ホエールズとの3球団競合の末、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。背番号は14番。先発ローテーションに通年で加わり、最多奪三振(201個)を挙げ、この年新人王獲得。
- 1988年 伝説となった「10.19」ダブルヘッダーに、両試合吉井理人の後を受け連投したが、第二試合に1点リードの状態でロッテオリオンズの高沢秀昭に同点ホームランを打たれ惜しくも優勝を逃す。
- 1989年 最多勝利(19勝)、最多奪三振(183個)のタイトル獲得。近鉄のエースとして昨年の雪辱を果たし、リーグ優勝に貢献した。
- 1995年 香田勲男投手との交換トレードで巨人に移籍。中継ぎ投手として再起を目指した。背番号は28番。
- 1998年 横浜に移籍。背番号は49番。主に中継ぎとして50試合に登板するなど復活を果たす。この年横浜の日本一に貢献した。日本一を決めた試合では勝利投手にもなっている。
- 2000年 現役引退。ドラフトで競合した3球団全てに在籍し、しかもその3球団全てで優勝するという、おそらく史上初の珍しい体験をした選手となった。
- 2001年から3年間巨人の二軍投手コーチ、2004年から2年間一軍投手コーチを歴任。
- 2006年から古巣横浜の一軍投手コーチに就任。1年で退団
- 2007年以降は未定
[編集] 通算成績
- 305試合登板、75勝68敗5S、985奪三振。防御率3.71。
[編集] タイトル・表彰
[編集] エピソード
- 同期の西崎幸広と共にトレンディエースと呼ばれ、特に女性に高い人気を誇った。1987年、阿波野はその西崎と熾烈な新人王争いを繰り広げ、阿波野は32試合登板、15勝12敗、防御率2.88、西崎は30試合登板、15勝7敗、防御率2.89と甲乙つけがたい素晴らしい成績を残した。しかし、リーグ最多の201奪三振を記録したこととシーズン当初からコンスタントに活躍したことが明暗を分けたのか結果は大差がついて阿波野が新人王を獲得し、西崎にはパ・リーグから特別表彰が贈られた。
- 阿波野は牽制も含めて非常にフィールディングが上手い投手であったが、1990年にボークのルールが変更され、その影響で当時近鉄と毎年激しい優勝争いを繰り広げていた西武の森祇晶監督は阿波野の牽制がボークではないかと執拗に抗議し、その結果阿波野は本来のフォームを崩し、この年以降成績が下降線をたどるようになったと言われている。(なお、本人は成績の下降について西武側の抗議の影響を否定)
- その阿波野の牽制を巡っての判定が優勝争いに大きな影響を与えたのが1988年10月19日ダブルヘッダー第2試合である。この試合、近鉄にとってはシーズン最終戦であり勝てば逆転優勝を決めることができる非常に重要な局面であった。(近鉄が勝てば近鉄優勝、ロッテが勝つか引き分けだと西武優勝)9回裏同点でロッテの攻撃、無死1・2塁の局面で阿波野は2塁に牽制球を投げたが高めに反れ、二塁手の大石大二郎がジャンプしてナイスキャッチ。牽制に慌てて戻ったランナー古川慎一が大石を避けながら滑り込んだ所、一瞬セカンドベースから足が離れた時にジャンピングキャッチして落ちてきた大石が交錯しながらランナー古川にタッチ、判定はアウト。
- この判定を巡ってロッテの有藤道世監督が審判に「大石が故意に古川を押した、アウトの判定は無効だ」と執拗に抗議。結局試合は9分間中断し、試合は同点のまま延長10回引き分けで西武が優勝を決めた。当時、ダブルヘッダーの第2試合は試合時間が4時間を超えた場合次のイニングに突入しないと言うルールがあり、近鉄が10回表の攻撃を終了した時点で試合時間が4時間まで残り2分に迫っており、その時点で試合が11回までもつれこむ可能性は事実上消滅し、近鉄の優勝は消えた。この9分間の中断がなければ延長11回まで試合がもつれ込んだ可能性があり、有藤監督の抗議は後日世間の非難の対象となった。しかしロッテにとってもこの試合まで同一カードの連敗が続いており、プロとして負けるわけにはいかなかったという事情があった。
- ほかの選手の形態模写が得意なようで、フジテレビプロ野球ニュースで中井美穂と桜沢エリカがホストしていたオフ企画に出演した際、「バッターボックスであまりに入れ込みすぎて、構えながらユニフォームの肩のところを噛んでしまうベン・オグリビー」を実演したことがある。
- コーチとしての評判は良くなく、巨人・横浜の二球団にコーチで所属していた時に、「投壊」状態に導いてしまった。
- 中学時代有名私立からの誘いを受けていたのにも関わらずあえて公立の桜丘高校を志望し塾通いして文武両道に勤しんだ。
- 仰木監督が、近鉄の指揮を取った最後の試合の先発投手は、野茂ではなく阿波野であった。曰く「一番投げさせてやりたい投手を使った」と。