パンチ佐藤
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パンチ佐藤(ぱんち さとう、本名:佐藤和弘(さとう かずひろ)、1964年12月3日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(右投左打・外野手、一塁手)、現在タレント、アマチュア野球選手。選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり芸名の由来ともなっている。ニックネーム「パンチ」(1994年には登録名としても使用)。
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[編集] 来歴・人物
武相高等学校から亜細亜大学に進学。社会人野球の熊谷組を経て、1990年にドラフト1位でオリックスブレーブスに入団。入団時の登録名は本名の「佐藤 和弘」。近鉄、巨人、横浜で活躍した阿波野秀幸は同期。NHK解説者の与田剛は後輩に当たる。1994年限りで引退。現在はタレントとして活躍している。
ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時の上田利治監督からの電話に「会社の上の人と相談して決める事ですけれども・・・自分の心はひとつです!!」と応え、入団当時から話題をさらった(その時の映像が後にリクルート「フロムエー」のCMでも使われた)。入団時の記者会見では契約金の話になったが「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり手を出せないです」という男気の発言で場内を驚かせた。
レギュラー定着までは行かなかったものの、その男気あふれるキャラクターと、後述の爆笑コメント(パンチ語録)で人気を博した。これらの「パンチ語録」は、この年のフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも取り上げられ話題になった。また、演歌好きでも知られた。またトレードマークのパンチパーマ同様、その筋の方が好みそうな格好が好みのようで、スーツの裏地には虎の刺繍がびっちり入っていた。「いや、こういうのは自分で満足するもんですから」と言いながらもどこか誇らしげのパンチであった。
[編集] エピソード
- 小学生時代のあだ名は「ザット」(’さとう’をもじって)。
- 中国人の妻(パンチ曰く「中国4000年の美女」)と国際結婚している。また妻との間に生まれた子供の家庭教師を、学生時代のテレビ朝日・河野明子アナが務めたらしい(それも多摩川べりで河野がラクロスに専念している所を狙ってパンチが声をかけたらしい)。
- パンチパーマにした理由は、社会人時代に坊主頭にしていた時、相手チームのボールを拾ってあげたところ、どうみても年下の選手から「サンキュー」といわれたことに憤慨し、若く見られないために始めたものである。
- よく知られた話として、社会人時代に飲み歩いていたところ、風貌から「そのスジの者」と思い込んだチンピラに「おまえ、どこの組のもんだ!」といわれ「熊谷組だ!」と答えたというのがある。しかし実際は、社員との飲み会後に先輩を「お疲れさまでした」と順番にタクシー乗り場で見送った場面で勘違いされ「わたくしは建設会社の熊谷組の者です」と丁重に事情を説明し、誤解を解いたとのことである。
- 高校時代の先輩に出川哲朗がおり、テレビ番組で共演すると出川から「そうだよなー、パンチ」などと先輩風を吹かされる。
- 入団間もない佐藤は中日とのオープン戦で1塁ベースに行き一塁手の落合博満に「初めまして。佐藤と申します」と挨拶をしたら、すかさず落合が「今ロサ・モタはどの辺走っているんだ」と言われ返答に困っていた。当時佐藤は自分のことをマラソンに例えて話すことが多く、その際に当時女子マラソンの第一人者であったモタの名前を出すことが多かった
- フジテレビプロ野球ニュースのオフ企画で、関西テレビの梅田淳アナウンサーと共に阪急電鉄に乗車しフランチャイズになる西宮球場に初登場するという場面があり、球場に入るなり自分で「ブーマーに代わり、バッター佐藤」と勝手に言っていた。
- グリーンスタジアム神戸での打席に登場時のテーマ曲はアップテンポの曲で統一されているが、パンチの場合のみ演歌であった。
- 福岡ドームのベンチ裏は食事が豪華でプレー中でも任意で食事が出来るようになっており、パンチが守備で悪送球を投げた時に指が滑ったとの事で、その理由「ついさっきまで稲荷寿司を素手で食べていて手を拭かずに守備につき油揚げの油が指についていた為」と弁解した。「ジャンクSPORTS」2002年11月19日放送分でもこの話を(多少形を変えて)披露しているが、現在では「プロ野球選手はプロアスリートのくせに、試合中に脂っこいものを好んで食べる。自己管理がなってない。そんなのはプロアスリートではない」という意味に拡大解釈されることもある。
- 1994年の阪神とのオープン戦で代打出場して中田良弘から足にデッドボールをくらい、その場にうつ伏せに倒れてしまい全く起き上がれなくなった。そして仰木監督が慌ててベンチを飛び出しパンチのもとへ行こうとした瞬間、パンチが急に立ち上がり全力で1塁ベースに走った為、それがパンチ特有の芸だと知るや仰木監督は大笑いをしながらベンチに戻った。ちなみにこの試合では仰木監督にピンマイクが付けられていて、代打のコールはもとよりデッドボールの際の笑い声も中継されていた。
- 引退後はタレントとしてスポーツ、バラエティ番組に出演している。現役時代からそうだが、その元スポーツ選手らしからぬ滑らかな口調と話術には定評がある。しかし、CX「ジャンクSPORTS」に出演時、野球に関するうんちくを述べた後、同じく出演していた野村克也に「ねっ、そうですよね?」とふったところ、「オマエの話はみなデタラメや」と一喝されたことがある。同番組で浜田雅功に「漫談」と言われたこともある。野村が言うところの「みなデタラメ」が本当かどうかは分からないが、程度の大小はあるものの誇張が含まれていると考えても差し支えはない。また、同じネタでも番組によって細部が微妙に異なる場合もある。
- 2005年にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズに入団が決定したが、その直後に別のプロ野球経験者が入団することになり、プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」ということから、1994年に休部した熊谷組野球部OBらが結成したクラブチーム・熊球クラブ(ゆうきゅう-)に移籍した(登録名義は佐藤和弘)。
- 以前から韓国に凝っており週1度はテコンドーの道場に通い、韓国料理もかなりのペースで口にするらしい(フジテレビ「ウチくる」{2005年秋に放送分}でもロケ地が韓国料理店だった)。しかしグルメ番組のレギュラーももっている程、味にはうるさい反面、午後8時以降は食べ物を口にしないという体調管理を貫いている。
- 2005年9月には、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者であった)が侵入している所を取り押え、地元・中原警察署から表彰を受けた。
- 2006年2月25日、フジテレビ「めざましどようび」において、トリノオリンピックで金メダルを受賞した直後の荒川静香に対し、「私が『うー!』と念じたらコーエンが転んだんです!」と暴言。視聴者からひんしゅくを買う。
- プロ野球解説者森祇晶の自伝で「要領が良い、立ち回りが上手いだけで中身が全く無い選手」と大久保博元とともに半ば特定される形で非難された。
[編集] 爆笑コメント集
- ドラフト会議後「『ちらーっと名前言わねぇかなー』なんて思いながら見てたんですよね。そしたら、ねぇー(ドラフト1位)。いやもう、おふくろは泣いちゃって、妹は『やめたらー』なんつってねぇ」
- その後、上田監督に電話をかけ「あぁ、夜分遅くに申し訳ありません。佐藤です、はじめまして(電話口で深々と礼)。会社の方と相談して決めることですけれども、自分の心はひとつです!」
- 「(今の気持ちを)マラソンに例えると...」
- 「ロサ・モタ(当時のマラソン選手)は今どの辺を走っている」
- 「カーッとケツの孔が引締まる思いですね」
- 「ブーマーに代わり、バッター佐藤」
- 「毎日の健康状態は”ウンコ”で判断します」
- ヒーローインタビューにて「オリックスブルーウェーブ、並びにこの佐藤和弘のために、今日は12万5000人のファンの皆様、ありがとうございました(実際の観客動員発表は2万7000人)」
- (今日も帰って今津コーチと一杯やるのですか?とアナウンサーに聞かれ)「下痢するまで飲みたいです、今日は」
- ちなみに、今津コーチは次の日の試合、プレイボールがかかる直前までトイレに入っており、試合開始が遅れた。佐藤と飲み明かして下痢したのかどうかは定かではない。
[編集] 現役時代
一方、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ。1994年、仰木彬新監督が就任し、登録名をあだ名の「パンチ」に変更する。(新井打撃コーチの提案。この時、同じように鈴木一朗もイチローに変更しているが仰木監督は、実際イチローを売り出すため、イチロー一人が変わって目立って萎縮しても困るので、改名し、目立ってくれといわれた)。復活を目指すが、成績の下降に歯止めがかからず、同年限りで戦力外通告、引退。この際に仰木から「お前はプロ野球選手としてはダメだが芸能界で食っていけるから野球をやめろ」と言われて戦力外通告されたので二つ返事で「はい辞めます!!」と答えたとは本人の弁である。
そのため「佐藤和弘は上田、仰木両氏を今でも尊敬し土井正三元監督には非常に遺恨を持っている」という設定であり、自著でも土井のことを「土井監督」ではなく「D」とイニシャル(敬称なし)で書いている。テレビ番組でも「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督には今でも感謝しています。その間に余計なものがありましたけど・・・」と「仰木軍団のイチの子分」のように振舞い微禄を得ている。しかし戦力外にした都合か仰木はテレビの前では一貫して黙認、愛弟子かのように振る舞う度量を持ち続け、上田・土井に至っては気にも留めていないようである。
現役最終打席は1994年GS神戸での近鉄戦の代打出場。3塁打を池上誠一から打ち、渾身のガッツポーズ。既に引退を決意していたのかベース上で号泣だった。
引退に際し後輩のイチローに記念にとユニフォームを貰ったがタグの年式が古かったため、後日TV番組で「古いユニフォームを渡した」とイチローに文句を言ったところ、「何言ってるんですか、ちゃんと背中の名前がICHIROになってるじゃないですか。日本記録を出したときの物ですよ」と逆にたしなめられたという。
[編集] 出演番組
[編集] 出演ドラマ
[編集] 通算打撃成績
- 通算試合 149試合
- 通算打率 .273
- 通算安打 71本
- 通算本塁打 3本
- 通算打点 26打点
- 通算盗塁 3盗塁
- 通算犠打 4個
- 通算犠飛 4本
- 通算四球 13個
- 通算死球 1個
- 通算三振 24三振
- 通算併殺打 2個
[編集] 著書
- 『パンチ佐藤の迷語録人生』(1992/03 サンマーク出版 ISBN 4763190334)