近鉄10000系電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
10000系電車(-けいでんしゃ)とは、1958年に登場した近畿日本鉄道(近鉄)の特急用電車である。
2階建車両を採用した日本初の特急用車両で、なおかつ、世界で初めての2階建車両による特急車両。かつて近鉄特急の代名詞的存在であった「ビスタカー」の初代にあたる。「旧ビスタ」、「ビスタI世」などと通称される。
目次 |
[編集] 登場に至るまで
1952年ごろから近鉄では、ロマンスシートなどを採用した新時代かつ会社の看板となる新型特急用車両について構想が立てられていたが、日本国有鉄道(国鉄)でカルダン駆動方式(新性能電車)による特急形・急行形電車の導入計画が伝えられる(20系(151系)電車・91系(153系)電車として登場)と、名古屋-大阪間で国鉄東海道本線と競合する近鉄では危機感を強め、それをも上回る設備を搭載した新型特急電車の導入計画が立てられ、研究が本格的に開始された。この結果、当時の社長であった佐伯勇らにより、ビスタカーの導入が決定した。
[編集] 概要
研究と試験の結果、1958年7月に試作特急車として登場したのが10000系であった。試作という事で7両編成1本が近畿車輛で造られたにとどまったが、近鉄としては画期的な装置・設備をいくつか搭載した歴史に残る電車となった。なお本命となるのは翌年に登場した10100系(2代目ビスタカー)である。
編成は下記の通りである。
- モ10000(10001)-モ10000(10002)-ク10000(10003)-サ10000(10004)-ク10000(10005)-モ10000(10006)-モ10000(10007)
7両編成のうち、両端4両の電動制御車・電動車を除いた中間3両(10003~10005)は連接台車を採用し、また10003と10005は2階建車両(ビスタ・ドーム)となった。当時社長を勤めていた佐伯勇がアメリカ合衆国を訪問した際にグレート・ノーザン鉄道を利用し、同鉄道の代表列車であった「エンパイア・ビルダー」に連結されていた、その名も「VISTA DOME」と呼ばれるドーム構造の2階建展望車の利用体験からヒントを得て開発したといわれる。
もっとも、建築限界や車両限界が狭い日本の鉄道においてはこの種の車両の設計は相当に困難であり、このため編成中央の4両目にあたる10004号が厳しい軸重制限と連接車ユニットとしてのシステム的な要の役割を担う必要性の両立を図る目的から、短い車体の床下に非常に高密度に機器を搭載[1]しており、2階建車となった10003号と10005号も連接台車の採用で1階の床面積を極限まで大きく確保することはできたものの、こちらも連接車故の軸重制限の厳しさもあって若干各電動車ユニットより車長が短いため、1編成中に3種の車体長の車両が混在するという、非常に特異な構成の編成になった。
機構面では、近鉄の特急用車両としては初めて、主電動機の動力伝達方式として、WN(ウェスティングハウス-ナタル)駆動と呼ばれる平行軸カルダン方式の駆動システムを採用し、先行した1450系試作車において近鉄と三菱電機の手で共同開発された、主制御器や電動発電機、あるいはコンプレッサーなどを2両単位で集約搭載する事でメンテナンス性の向上や軽量化を実現するMM'ユニット方式を取り入れた他、空気バネ台車の全面採用や、制動系へのHSC-D(発電ブレーキ併用電磁直通空気ブレーキ)の採用と併せて、高速運転時の制動性能向上をねらってディスクブレーキが導入された事でも注目を集めた。また警笛も通常の警笛の他、近鉄の特急車では初めて「ハイウェーホーン」を装備した[2]。
主電動機は、1954年の奈良電気鉄道デハボ1200形(後の近鉄680系)でその初号機が採用され、奈良線800系で実績を積んだ三菱電機MB-3020系(MB-3020C[3])で、このシリーズは以後10400系まで近鉄大阪線系初期高性能特急車の標準主電動機となった。
また、台車はベローズ式空気バネを揺れ枕上に備えるシュリーレン式の近畿車輛KD-26(Mc/M)・-27(Tc)・-27A(Tc/T連接部)で、同時期登場の名古屋線6431系が履いたKD-28/28Aと軌間や主電動機の装架方法、それに揺れ枕吊りの構造は異なる[4]が、軸箱部分や側枠の基本的なデザインは同様となっており、いずれも当時としては傑出した乗り心地を誇った。
もっとも、これらKD-26~28系台車は、26/27/27Aが本系列と運命を共にし、28/28Aは名古屋線改軌時に姿を消すという短命ぶりであり、試行期の少数派故に保守上嫌われた事を伺わせている。
アコモデーションについては、シートラジオ、車内公衆電話、それに冷房装置の搭載と先代大阪線特急車であった2250系から継承した車内設備に加え、回転式クロスシートの採用と複層ガラスによる側窓の完全固定化が実現しており、これらの装備は直後に登場した国鉄20系電車のみならず、以後の日本の有料特急電車全般の設計コンセプトに少なからぬ影響を与えることとなった。
塗り分けは紺色とオレンジのツートンとなり、これは塗り分けを変えつつ以後の近鉄特急の標準色となっている。登場当初は下半分が紺色、上半分がオレンジであったが、10100系の登場後は同系に合わせて窓回りと裾が紺色、残りがオレンジとなった。2階建て車の側面には「VISTA CAR」のロゴが取り付けられている。
性能については、基本的には4M3Tで起動加速度3.0km/h/s・減速度4.0km/h/s・平坦線均衡速度135km/h・33‰勾配における均衡速度85km/hとなるが、デッドウェイトとなる中間のトレーラー(付随車・制御車)を抜いた4M編成時には、平坦線均衡速度145km/hという驚異的な高速性能を有していた。
[編集] 運用
1編成のみの製造であったため独立した運用が組まれ、主に大阪・上本町駅-宇治山田駅間の阪伊特急に充てられた。10100系や10400系(エースカー)が登場した後は脇役的存在に回り、塗り分けも10100系と同じになった。なお7両固定編成での運行が基本であるが、時には片側2両の電動車ユニットを外した5両編成や、中間の2階建車両ユニットを抜いた4両編成での運行も行った。
[編集] 大破事故による前頭部復旧
1966年11月12日に大阪線河内国分駅で発生した、上本町発宇治山田行き特急による上本町発名張行き準急への列車追突事故により、衝突した宇治山田方先頭車(10007)の前頭部が大破したが、本系列はその特殊性故にこの時期既に持て余し気味であった事や、後継車である10100系を含め非貫通の流線型運転台は増結時の取り扱いについて非常に不便であった事などからその復旧は遅れ、結局翌1967年6月になって10007号はファンから「蚕」とあだ名された特徴的でライオンの形をした流線型前頭部を撤去し、当時新造中の18200系に準じた仕様の特急標識や、密着式連結器を備える貫通扉付き制御電動車として復旧され、多くの鉄道ファンを驚かせた。この際、10007号のみは4枚折戸を他車と共通の2枚折戸に変更されている。また、その後1970年には当時クローズアップされつつあった黄害対策として近鉄が保有する全てのトイレ付き車両に対して実施したトイレのタンク式への変更工事に際しては、10001・10007号の車端部に設けられていたトイレはタンク化が実施できたが、床下スペースに余裕が無い為にタンク化不可能な10004号の車体中央部にあったトイレは閉鎖され、代わりに使用頻度が極端に低下していた10003号の運転台を廃止・撤去してそこに新たな便所を設置するという工事が施工された。
[編集] そして終焉
1970年3月21日よりコンピュータによる特急券販売が導入されることになったが、本系列は試作的要素が高かった事から1編成しかなかった上に特殊な編成で座席の構成も非常に複雑であり、例外的な処理[5]を行わねばならなかったこと、それにKM式集中冷房装置が老朽化した為に10004の屋根上に補助用として家庭用ユニットクーラーを搭載せねばならぬ程冷房能力が低下していた事や1970年に開業した難波線への乗り入れが出来ない等の理由から、登場から僅か13年後の1971年に引退・廃車された。
なお、標準品であった主電動機や制御器等の電装品群は2680系3連2編成に流用されたが、まだ使える筈の台車は流用されず車体と共に破棄されている。
[編集] 脚注
- ↑ そればかりか両脇の2階建車に冷風を供給するための冷房装置が屋根上に搭載されてもいた。
- ↑ 1957年製造の6800系が近鉄におけるハイウェーホーンの初採用例である。
- ↑ 端子電圧675V時定格出力125kW。
- ↑ 本系列のKD-26/27/27Aは線路方向に揺れ枕がスイングする「短リンク式」と呼ばれるシュリーレン式台車の第1世代の最終モデルに当たるのに対し、6431系のKD-28/28Aは枕木方向に揺れ枕がスイングする第2世代の「長リンク式」シュリーレン式台車の第1陣であった。
- ↑ 本系列が充当される特急のみ、従来の手作業での発券を強いられた。
[編集] 関連商品
マイクロエースより2007年初頭にNゲージ鉄道模型で製品化される予定である。最初期の7連と最晩年(10003の運転台撤去、10004の便所閉鎖、10007の前面復旧後)の7連が製品化される。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 鉄道関連のスタブ項目 | 鉄道車両 | 近畿日本鉄道