赤松範資
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤松 範資(あかまつ のりすけ、1280年(弘安3年)? - 1351年5月4日(正平6年/観応2年4月8日))は、南北朝時代の大名。赤松則村の嫡男。官位は信濃守。左衛門尉。
1333年、父の則村が鎌倉幕府討幕のために挙兵したとき、これに従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより、室町幕府成立後、尊氏から摂津国守護に任じられた。1350年、父・則村の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では、尊氏側、つまり師直側に与して直義軍と戦っている。
1351年4月8日、京都堀川七条の自邸にて急死。後を弟の赤松則祐が継いだ。法号は世範。ちなみに範資の系統は、七条氏として存続している。