豊田泰光
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豊田 泰光(とよだ やすみつ、 1935年2月12日 - )は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手、野球解説者。現役時代は豪快なバッティングで、西鉄黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者をつとめている。2006年に野球殿堂入り。
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[編集] 来歴・人物
水戸商業高校で1952年に甲子園大会に出場しその後、西鉄に入団。遊撃手のレギュラーとなり、三原脩監督の卓抜した選手起用により、強打の2番打者として活躍した。当時の野球では遊撃手といえば打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバント、進塁打で走者を進めることが疑いの無い常識だった。そういう意味で豊田のプレースタイルは当時としては異質であった。1962年には選手兼任で助監督を務めるがわずか1年で辞任。その年のオフ国鉄(1965年5月10日からサンケイ、1969年からヤクルトだがこの年のみアトムズと名乗る)移籍後は一塁手、代打として活躍した。1969年に引退。
現役引退後はニッポン放送で解説者となった後、近鉄で1年間(1972年のみ)コーチを務めた。1973年以降は評論活動に戻る。週刊ベースボールに持つ連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」は、現在に至るまで通算600回以上続いている。
また、木製バットの原材料である、アオダモの植樹活動を精力的に行っている。
[編集] 成績
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1953 | 西鉄 | 115 | 402 | 64 | 113 | 27 | 59 | 25 | 3 | 31 | 3 | 92 | 1 | .281 | 45 | |
1954 | 西鉄 | 134 | 494 | 77 | 119 | 18 | 63 | 33 | 14 | 2 | 72 | 1 | 107 | 3 | .241 | 38 |
1955 | 西鉄 | 144 | 546 | 94 | 150 | 23 | 76 | 27 | 19 | 2 | 64 | 1 | 75 | 9 | .275 | 39 |
1956 | 西鉄 | 148 | 529 | 90 | 172 | 12 | 70 | 31 | 15 | 7 | 76 | 2 | 59 | 17 | .325 | 40 |
1957 | 西鉄 | 128 | 463 | 92 | 133 | 18 | 59 | 24 | 12 | 5 | 70 | 0 | 64 | 7 | .287 | 33 |
1958 | 西鉄 | 111 | 399 | 72 | 103 | 13 | 43 | 11 | 6 | 2 | 50 | 1 | 65 | 11 | .258 | 27 |
1959 | 西鉄 | 133 | 447 | 61 | 134 | 17 | 81 | 13 | 3 | 4 | 78 | 2 | 68 | 17 | .300 | 27 |
1960 | 西鉄 | 127 | 425 | 75 | 122 | 23 | 87 | 9 | 0 | 5 | 77 | 1 | 82 | 7 | .287 | 21 |
1961 | 西鉄 | 120 | 391 | 65 | 116 | 16 | 60 | 10 | 2 | 5 | 87 | 1 | 55 | 13 | .297 | 22 |
1962 | 西鉄 | 130 | 431 | 73 | 118 | 23 | 67 | 9 | 0 | 2 | 84 | 2 | 80 | 14 | .274 | 18 |
1963 | 国鉄 | 136 | 472 | 68 | 138 | 20 | 70 | 12 | 2 | 3 | 71 | 1 | 65 | 17 | .292 | 27 |
1964 | 国鉄 | 120 | 393 | 71 | 108 | 24 | 59 | 7 | 1 | 3 | 72 | 0 | 63 | 14 | .275 | 14 |
1965 | 国鉄・サンケイ | 58 | 185 | 20 | 43 | 10 | 22 | 1 | 0 | 3 | 31 | 2 | 31 | 4 | .232 | 9 |
1966 | サンケイ | 24 | 69 | 5 | 10 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 | 19 | 3 | .145 | 2 |
1967 | サンケイ | 106 | 309 | 34 | 76 | 9 | 36 | 3 | 0 | 2 | 32 | 3 | 60 | 4 | .246 | 5 |
1968 | サンケイ | 40 | 83 | 11 | 20 | 5 | 19 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 20 | 0 | .241 | 0 |
1969 | アトムズ | 40 | 99 | 8 | 24 | 3 | 13 | 0 | 0 | 1 | 16 | 0 | 17 | 6 | .242 | 3 |
通算 | 1814 | 6137 | 980 | 1699 | 263 | 888 | 215 | 77 | 934 | 20 | 1024 | 147 | .277 | 360 |
[編集] タイトル・表彰
- 新人王(1953年)
- 首位打者1回(1956年)
- ベストナイン6回(1956年、1957年、1959年-1962年) いずれも遊撃手
[編集] エピソード
- 6(遊撃手)ー4(二塁手)ー3(一塁手)のダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修→中西太)は普段と異なる点が1つあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっている。ところが仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」というので、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は、二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6ー4ー3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。
- 1956年に首位打者を獲得しているが、このときチームメイトの中西とは僅差であった。最終戦を前に中西は打点・ホームランの2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。ちなみにこの試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。
- 西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことでも知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が黒地に白のNLマークに変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間を除き、西鉄が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。ちなみに白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャーを務めた藤本哲男が福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。
- 1962年限りで西鉄を退団して国鉄に移籍したが、西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。なお、豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである(後述)。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎監督が辞任すると、西鉄は「監督・中西、助監督・豊田、投手コーチ・稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展してしまった。
- ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、現在では「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩に戻っている。
- ちなみに国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。
- 本当は入りたかった巨人に入らず国鉄に入団した原因として当時、国鉄のコーチに高校の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。というのも豊田は茨城県立水戸商業高等学校時代当時の立教大学監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、その結果の国鉄入団となったのである。
- また、当初西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。西鉄は見返りとして金田正一投手または村田元一投手のいずれかを望んだものの、結局トレードマネーで解決し、得た資金でウィルソン・バーマ・ロイの3外国人選手を獲得。1963年の優勝にこの3人が大きく貢献することになる。
- 1968年に2試合連続で代打サヨナラ本塁打の離れ業を見せている(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも中日の山中巽だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。
- 1969年限りで現役を引退し解説者となったいきさつは、当時小学生だった息子の一言が引き金となっている。その年豊田はスタメン出場の機会はまったくゼロで代打としての出番も少なくなっていて悶々としていた。そこに「あんたの子供がけんかで相手に怪我を負わせた」という小学校からの通知。それが来た夜豊田は「何で怪我を負わせたんだ?!」と問い詰めると息子は「『お前んとこの父親は役立たず。役立たず』とはやしたてられ、カッとなってボコボコにした」と答えた。これを知った豊田は「もう、引退しないといかんなぁ」と決意したといわれている。
- 稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長だった豊田から「西鉄に入る? 運転手になるなら本社へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。
- 金田正一が発足させた名球会への皮肉の意味も込めて、通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の発足を企図したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった。これは、当時他の対象者がほとんど名球会の会員だったことが一因といわれる。
- また、大沢啓二が理事長を務めるプロ野球OBクラブも批判している。そのため豊田と大沢は犬猿の仲である。
- 1982年にロッテの落合博満が打率.325、32本塁打、99打点という成績史上最年少で三冠王を獲得した際、雑誌のコラムで「こんな低レベルの数字で三冠王を達成しても三冠王とは認めない」と発言した。これに対して落合は「三冠王になったこともないような人に言われる筋合いはない」と言い返してしばらくの間両者の仲に確執が生じていたが、1985年に落合が打率.367、52本塁打、146打点という文句のない成績で三冠王を獲得すると、さすがに兜を脱いで落合に詫びた。
- 1999年の福岡ダイエーホークスの春季キャンプを取材していたら城島健司に「俺の事をボロクソに書くなこのヤロー!!」と怒鳴られた。理由はスポーツニッポンの九州版に城島の酷評コラムを書いており、これが城島本人の怒りを買ったらしい(選手に怒鳴られたというケースは後にも先にも城島のケースのみである。この経緯から、城島を批判することはタブーとされている)。
- 1998年のヤクルト対巨人のテレビ中継でヤクルトの野村克也監督の野球の素晴らしさを引き合いに出し長嶋茂雄の監督能力、不可解な選手起用、さらに無能さを批判した。テレビの公共電波で長嶋批判をやった人物は過去にも水原茂らがいるが、「巨人信者」として知られる巨人系列の日本テレビの元アナウンサー・徳光和夫の怒りに触れたり、テレビ局には抗議の電話が殺到した。
- 2004年にパシフィック・リーグがリーグチャンピオンシップ(=変則トーナメント方式のプレーオフ)を導入した際リーグ優勝の価値が暴落するとの理由から、以降は徹底的なプレーオフ批判論者となっている(2007年にセントラル・リーグも導入すると発表された際も同様の理由で批判していた。ただし、2005年のロッテの日本一に関しては、プレーオフは論外だとしながらも異論は唱えていない)。
また2006年10月7日付けの朝日新聞コラムで「パ・リーグが導入を決めた際渡邉恒雄(=現読売ジャイアンツ会長、導入当時はオーナーであった)さんが「冗談じゃない」と反対しておられていたがセ・リーグが導入を決めた際反対しなかったのは巨人が弱くなった証拠なのかねぇ…」と巨人までが賛成する現実にあきれた趣旨の文章を載せている。
[編集] フジテレビ絶縁宣言
豊田は、引退の翌年(1970年)以降コーチとして現役復帰した1972年を除きプロ野球中継や1976年からスタートしたプロ野球ニュースでフジテレビの解説者として活躍していた。
2002年頃、「フジテレビが野球を大切にしなくなった」ことを理由に「フジテレビ絶縁宣言」を表明し、以来テレビでの解説から去った。フジテレビではプロ野球ニュースなどの野球番組で、1987年頃から野球に詳しくない女子アナウンサー(中井美穂、西山喜久恵、木佐彩子、大橋マキ、内田恭子、平井理央ら)、1990年代からはお笑い芸人(とんねるずがキャスターを務めたりもしていた)が大きな役割を占めるようになっており、こういった野球ニュースとしての低質化に起因するものと思われる。しかし、これを差し置いても、一番の絶縁の理由は2001年のプロ野球ニュースの終了であった。豊田自身「プロ野球ニュースだけは絶対に終わらせてはいけない」と声を大にして叫んでおり、終了後はCS放送に移動して放送されたが、このことが許せなかったようである。週刊ベースボールの自身のコラムでも、これについて何度も発言している。
[編集] 関連項目
[編集] 現在の出演番組
- 文化放送ホームランナイター ※豊田によると規制なく自由にめったぎれるから出演できるとの事だ。ちなみにかつては文化放送ライオンズナイターにも出演していた事がある。
[編集] 外部リンク
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