河野昭修
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河野 昭修(こうの あきのぶ、 1930年8月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。
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[編集] 来歴・人物
[編集] エピソード
- 高倉照幸・豊田泰光・中西太・大下弘・関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年にリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原監督の元で築き上げた。
- 現役時代のポジションは内野手だった。はじめは三塁手で、中西の入団後、遊撃手にコンバートされた。しかし豊田の入団で二塁手にコンバートされた。さらに仰木彬の入団で、一塁手へ転向した。
- 一塁の守備は、非常に上手く、どのような送球でも捕ったことから、「蝿取紙」のニックネームがついた。また豊田は、自伝「風雲録」で、河野が一塁に定着してからエラーが減ったと述べている。
- 修猷館高校から入団した、西鉄唯一の「博多っ子」として知られる。そのためファンからの人気は非常に高く、遊撃手から二塁手にコンバートされた際には河野の後を継いで遊撃手になった豊田の守備が上手くない上に豊田の態度がふてぶてしかったこともあって、三原・豊田に対するファンの風当たりが相当強かったといわれる。ちなみに三塁手の後釜になった中西は打撃面での貢献が大きかったため、また二塁手を引き継いだ仰木は地元(福岡県中間市)出身だったため、河野を追い出して定位置を確保する形になってもブーイングが飛ぶことはなかった。
[編集] 通算成績
- 821試合
- 2292打数 557安打 打率.243
- 20本塁打
- 164打点
- 46盗塁
- 247得点
[編集] 関連項目
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