華頂宮博忠王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
華頂宮博忠王(かちょうのみやひろただおう;明治35年(1902年)1月26日 - 大正13年(1924年)3月24日)は日本の皇族、海軍軍人。伏見宮博恭王の第二王子で、母は征夷大将軍・公爵徳川慶喜の九女経子。博恭王が華頂宮当主であった時の王子で、博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり僅か2歳で華頂宮の家督を継承する。王は海軍兵学校を卒業し海軍中尉に進む。大正12年軽巡洋艦五十鈴乗組であった時に病に倒れ、佐世保海軍病院に入院する。
大正13年(1924年)3月博忠王が薨去。王には妃・王子ともに居なかった為、之により華頂宮家は断絶する。この2年後の大正15年(1926年)12月に弟宮の博信王が臣籍降下するにあたり、華頂の姓を下賜され華頂宮の祭祀を継承する。
[編集] 経歴
明治35年(1902年)1月26日 | 誕生 |
明治37年(1904年)1月15日 | 華頂宮継承 |
大正10年(1921年)7月16日 | 海軍兵学校卒業・海軍少尉候補姓・八雲乗組 |
大正11年(1922年)1月 | 貴族院議員(皇族議員) |
大正11年(1922年)5月25日 | 海軍少尉 |
大正11年(1922年) | 陸奥乗組 |
大正12年(1923年)3月30日 | 海軍砲術学校普通科学生 |
大正12年(1923年)7月12日 | 海軍水雷学校普通科学生 |
大正12年(1923年)12月1日 | 五十鈴乗組 |
大正13年(1924年)3月19日 | 大勲位菊花大綬章受章 |
大正13年(1924年)3月19日 | 海軍中尉 |
大正13年(1924年)3月24日 | 薨去 |
カテゴリ: 人名関連のスタブ項目 | 日本の皇族 | 日本の海軍軍人 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 1902年生 | 1924年没