草軽電気鉄道
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草軽電気鉄道(くさかるでんきてつどう)とは長野県北佐久郡軽井沢町の新軽井沢駅と群馬県吾妻郡草津町の草津温泉駅を結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)を運営していた東急グループの鉄道事業者。
鉄道事業廃止後も、会社は草軽交通というバス会社として残っている。本項目では主に同社が運営していた鉄道路線について述べる。
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[編集] 路線データ
[編集] 運行状況
1940年7月1日改正当時
- 旅客列車本数:日7往復(7月1日~9月20日は1往復増発、軽井沢~北軽井沢間の区間便以外は貨客混合列車が多かった)
- 所要時間:全線2時間34分~3時間2分
[編集] 概要
草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても未だ交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、草津と浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。大正期の1914年~1926年に順次路線を開通させた。開業に際し、以下のような唄も作られている。
- 私や草津の鉄道よ 長い苦労の効あって 開通するのも近いうち 前途を祝して踊ろうよ
- 私や上州の草津町 浅間を右に高原の 海抜四千五百尺 お湯じゃ日本のオーソリティー
- 湯の花かおる草津には 春は緑に秋紅葉 冬はスキーに夏は避暑 浮世離れた理想郷
なお建設に際しては、出来るだけその費用を抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しなかった。それに加え、本来軌道敷に必要な砕石も敷かれない区間もあった。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5kmを走破するのに2時間半~3時間を要した。
高原地には、嬬恋・北軽井沢等の途中駅があった。高原列車として親しまれ、1951年には日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場し、当時の様子を知ることができる。しかし、1935年に渋川~草津間などに国鉄バスが運行開始され、一般のバスの大型化が進むなど、草軽の輸送力は、他の輸送手段に比べてその差は歴然としており、乗客は次第に減少した。
更に国鉄長野原線(現・JR吾妻線)の開通(長野原~草津温泉間は国鉄バスが旅客輸送を受けた)により利用者が国鉄側へシフト。更に度重なる台風災害は草軽創設以来、鉄道施設に最大の被害をもたらし、第一次廃線として1960年に新軽井沢~上州三原間が廃止。採算性もとれないと判断されていた上州三原~草津温泉間も1962年には廃止になった。
草軽電気鉄道は、観光に大きな功績を残しただけではなく、沿線町村の活性化にも重要な役割を果たした。物流の面でも、この小さな鉄道が大きな役割を持っていたのである。温泉地である草津町には食料を中心にした物資を運び、長野原町、六合村、嬬恋村の3町村から産出される農産物や、白根山周辺に点在した鉱山からの硫黄鉱石などが草軽電鉄によって輸送されたのである。そのため、定期列車は貨客混合列車が普通であった(貨物列車も設定されていた)。第二次世界大戦が終盤を迎える頃、草軽電鉄の輸送はピークに達した。その頃、硫黄の産出もピークを迎え、当時の硫黄鉱山を経営していた「帝国硫黄工業」と連携して、多量の硫黄鉱石が搬出され、戦争へ出てゆく兵士の出立なども草軽電鉄が使われることが多かった。しかし、前述のように国鉄バスや国鉄長野原線の開業、台風災害による被害などでその役割を終えたが、沿線の町村に近代文明をもたらした存在でもあったのだ。
[編集] 東急対西武
箱根、伊豆、東京城西地区、渋谷など何かと張り合った東急・西武両陣営だが、ここ軽井沢~草津間でも両者の競争が繰り広げられていた。元来軽井沢開発は西武が先行していて、1945年東急が草軽電鉄を傘下に納めたとき既に西武は鬼押しハイウェーを系列会社の手で敷設したうえで軽井沢高原バスを運行し、地域交通を手中に収めていたほか、軽井沢の別荘開発を早くから手がけるなど、軽井沢周辺では西武系の勢力が強まっていった。
しかし、草津温泉においては、西武系は草津温泉に路線バスが乗り入れるのみで自系列の宿泊施設等はなかった(西武系は万座温泉方面から志賀高原方面に力を入れて開発することとなる)。後に東急系列が「草津温泉ホテル東急(草軽直営だったが現在は営業から手を引いて「草津温泉ホテルリゾート」となった)」を開業させたことを考えると、草津温泉では東急にやや軍配が上がったとも言える。草津温泉ホテルリゾート前の駐車場に隣接して小さな公園があり、公園内には草軽電鉄の草津温泉駅跡の小さな記念碑が建てられている。
モータリーゼーションが進みスピード重視へと世の中が傾斜してゆく中、少ない本数で時間をかけてゆっくり走る小さな電車の草軽電鉄よりも、増発が可能でスピーディーに走り、収容能力に勝る西武高原バスへ客が流れて行くのは寧ろ当然であった。しかし、その頃は草軽も沿線を中心に乗合自動車の営業を開始していた。バスの大型化なども進み、奇しくも草軽電鉄を挟む格好で東急系列の草軽と西武は対峙したのである。
競争に敗れた東急側が不採算の高原電車を廃止し、草軽交通バスで挽回を図ったのもやむを得ない選択であったといえる。ただ、草軽電鉄は牧歌的な雰囲気を持つ高原電車として鉄道ファンには愛された路線であったためか、現在までもう少し辛抱していれば、あるいは東急対西武の対立関係がなければ、草軽電鉄は観光路線として活路を見いだし今日まで走り続けていたかもしれない、と言われている。
[編集] 歴史
- 1915年7月22日 草津軽便鉄道が新軽井沢~小瀬(のちの小瀬温泉)間開業。
- 1917年7月19日 小瀬~吾妻間開業。
- 1918年6月15日 地蔵川駅開業。のちの北軽井沢駅。
- 1919年11月7日 吾妻~嬬恋間開業。
- 1920年8月11日 国境平駅開業。
- 1921年10月15日 小代駅開業。
- 1923年11月9日 長日向駅開業。
- 1924年11月1日 新軽井沢~嬬恋間電化。
- 1925年2月29日 草津電気鉄道に社名変更。
- 1926年8月15日 嬬恋~草津前口間開業。以降は開業当初から電化。
- 1926年9月19日 草津前口~草津温泉間開業。全線開通。
- 1932年6月3日 旧道駅開業。
- 1936年7月10日 湯沢駅開業。
- 1939年4月28日 草軽電気鉄道に社名変更。
- 1945年4月1日 東京急行電鉄の傘下に入る。
- 1959年8月14日 台風のため、吾妻川橋梁が流失。嬬恋~上州三原間が不通となり代行バス運行。
- 1960年4月25日 新軽井沢~上州三原間廃止。
- 1962年2月1日 上州三原~草津温泉間廃止され全線廃止。
[編集] 駅一覧
新軽井沢駅 - 旧道駅 - 旧軽井沢駅 - 三笠駅 - 鶴溜駅 - 小瀬温泉駅 - 長日向駅 - 国境平駅 - 二度上駅 - 栗平駅 - (臨)湯沢駅 - 北軽井沢駅 - 吾妻駅 - 小代駅 - 嬬恋駅 - 上州三原駅 - 東三原駅 - 万座温泉口駅 - 草津前口駅 - 谷所駅 - 草津温泉駅
[編集] 接続路線
※上州三原駅付近で、現在の吾妻線万座・鹿沢口駅付近を通っていたが、吾妻線が万座・鹿沢口駅を経て大前駅まで延伸されたのは、草軽電気鉄道が廃止された後の1971年なので、営業当時は現在の吾妻線との交点はなかった。
[編集] 現況
しなの鉄道軽井沢駅の駅前から北へ続く道路には、上下線で不自然に段差が有るが、これは草軽電気鉄道の線路が通っていた名残である。また廃線跡には、鉄橋の橋脚、北軽井沢駅舎などがが遺構として残っている。北軽井沢駅舎は2006年9月15日に国の登録有形文化財に登録するよう答申された。
また、多くの区間は道路などとなっているが、廃線後長い時間を経て、自然に還ってしまった区間も少なくない。
[編集] 保存車両
- デキ13 (旧)軽井沢駅舎記念館
- コワフ104 旧草軽電鉄車庫跡(草軽交通本社整備工場敷地内)
またこのほかにも、新潟県長岡市にモハ105が置かれていたが、2002年に解体された。