粛軍クーデター
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粛軍クーデター | |
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各種表記 | |
ハングル: | 12·12군사반란 |
漢字: | 12·12軍事叛亂 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
シビシビクンサパルラン / シビシビクーデター |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Coup d'état of December Twelfth |
粛軍クーデター(しゅくぐん-)は1979年に大韓民国で起きた軍内部の反乱事件。
1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると、崔圭夏国務総理が大統領代行に就任し、12月6日には統一主体国民会議代議員会で第10代大統領に選出された。
崔圭夏の選出はあくまで維新体制の枠内でのことだったが、選出された大統領が文民であることから独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭した。しかし、12月12日保安司令官全斗煥陸軍少将が第9師団長盧泰愚陸軍少将や保安司令部若手将校の支持を得て、戒厳司令官の任にある鄭昇和陸軍参謀総長を自宅で逮捕した。次いで国防部や陸軍本部を占領、国防相も逮捕して軍部の実権を掌握した。この過程で銃撃戦が発生し、多数の死傷者がでている。この事件は軍の粛正を名目として行われたので粛軍クーデターと呼ばれる。軍部を掌握していない崔圭夏大統領は、保安司令部を中心に決行された反乱を黙認せざるをえなかった。
朴正煕政権時代に似た軍部独裁を志向する新軍部に抗議して大規模な学生デモが発生したが、1980年5月17日の軍事クーデターによる全国非常戒厳令とそれに抵抗する光州事件で弾圧され、同年8月崔圭夏大統領は新軍部の圧力の下に辞任、9月1日には全斗煥将軍が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出された。この新体制を第五共和国(五共)という。
クーデターと呼ばれるが粛軍クーデター自体は軍内部の反乱であった。政権を奪取するという意味でのクーデターに該当するのは、むしろ1980年の全国非常戒厳令から光州事件に至る過程である。これによって崔圭夏を辞任に追い込み、新軍部が実権を握るに至ったからである。
後の金泳三政権下で、全斗煥・盧泰愚らは光州事件と政権奪取の首謀者として捜査対象となったが、刑法では時効が援用されて全斗煥・盧泰愚は内乱罪に問われなかった。しかし直後に、粛軍クーデターが全斗煥将軍らの軍刑法における反乱罪にあたると認定された。