粛宗 (唐)
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粛宗((肅宗)しゅくそう、711年(景雲2年) - 762年(宝応元年)、在位756年(至徳元載) - 762年)は、唐の第七代皇帝。第六代皇帝・玄宗の第三子。諱は亨で、初めは璵で、嗣昇、浚、紹と次々と改名を繰り返したという。粛宗は廟号で、諡号は文明武徳大聖大宣孝皇帝。生母は楊氏(楊貴妃とは別人)。
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[編集] 生涯
長兄の李琮が早世し、次兄の皇太子の李瑛が737年(開元25年)武恵妃らの策謀によって皇太子位を廃されると、その翌年(開元26年)皇太子に立てられた。744年(天宝3載)には改名して『享』と名乗った。
755年(天宝14載)11月安史の乱が勃発し、翌年(756年)長安に反乱軍が迫って来ると玄宗と共に長安を脱出した。馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによるクーデターで楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗らは蜀へ難を避け、李享らは乱に対抗するため残存して北へ行くことになった。一行は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)に到着した。7月、皇太子時代からの側近である宦官李輔国の説得もあって皇帝に即位することになり、至徳と改元した。これは玄宗の了解を得たわけではなかったが、事後承諾させて上皇に押しやった。
その後、馳せ参じた郭子儀の軍を中心としてウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗自身は鳳翔(陝西省鳳翔県)に出陣し反撃に転じた。757年(至徳2載)には安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王・李俶(後に豫と改名)と第三子の越王・李係らが活躍して長安や洛陽を奪還し、粛宗は冬10月、玄宗は同12月に長安に戻ることができた。しかし、安慶緒や史思明ら残党の勢力はその衰えを見せなかったため、唐軍は完全な勝利は得ることができず膠着状態が続いた。
758年(乾元元年)、粛宗は第五琦を塩鉄使として塩の専売制を導入し、財政改善に努めるなど国家体制の強化を図ったが、既に政治の実権は皇后・張氏や李輔国を初めとする宦官達に握られてしまっていた。李輔国は張皇后と主導権争いを起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李倓に謀反の罪を着せて死を賜うといった事態にまで発展した。こうしたことは粛宗の病状をさらに悪化させた。
762年(宝応元年)夏4月、父の玄宗が亡くなって13日後に、その後を追うかのように粛宗も52歳でこの世を去った。ついに彼等は翌年の安史の乱終結を見ることができなかった。
粛宗が宦官に擁立されたことが端緒となって、これ以降の皇帝が宦官によって死命を制せられるようになった。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 張皇后
- 韋妃
- 章敬皇后呉氏
[編集] 子
- 広平王李俶(代宗)
- 恭懿太子(斉王・建寧王)李倓
- 越王李係
- 衛王李佖
- 涇王李侹
- 鄆王李儝
- 襄王李僙
- 杞王李倕
- 召王李偲
- 興王李佋
- 定王李侗
- 宋王李僖