安禄山
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安禄山(あんろくざん、705年 - 757年)は唐代の中国の軍人。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、大燕帝国皇帝を名乗ったが、最後は息子に殺された。
安禄山は六ヶ国語に堪能であったため、初め互市郎(貿易官)に任じられた。その後、軍功を立て出世していき、742年には節度使になり、その後は玄宗と楊貴妃に取り入り、二つの州の節度使を拝命し、三つの州の節度使を兼任する事になった。
安禄山は200kgを越す巨漢であり、その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時に「ただ忠誠のみが入っています。」と答えた。また楊貴妃の養子になりたいと言い出し、おむつをして大きなゆりかごに入って出てきて、玄宗や楊貴妃を大いに笑わせた。これらの事は玄宗の「軍事力を背景に反乱を起こすのでは」と言う疑いをそらすための苦肉の策であった。
安禄山は元々宰相李林甫の引き立てを持ってここまで出世してきたが、楊貴妃の従兄楊国忠と結んで李林甫を追い落とした。その後、後任の宰相となった楊国忠と安禄山による主導権争いになる。この勝負は常に玄宗の傍にいる楊国忠の方が有利であり、楊国忠は事ある毎に安禄山の讒言を玄宗に吹き込んだ。これに危機感を覚えた安禄山は755年に遂に反乱を起こした。
洛陽を陥落させ、翌756年聖武皇帝を自称し国号を燕とした。更に長安を陥落させ、玄宗は四川へ逃亡した。
しかしこの頃に安禄山は失明し、その影響から周りの人間に対し粗暴になり、自らの実子安慶緒を廃して、養子に後を継がせようとしたために、安慶緒に殺された。
その後、この乱は安慶緒を殺した史思明に引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり763年まで続く。この乱により唐の屋台骨は大きく傾き、これ以降の唐は斜陽となる。
[編集] 聖武皇帝
聖武皇帝(せいぶこうてい)は、安禄山が自称した帝号。正式には大燕聖武皇帝(だいえんせいぶこうてい)という。
ほぼ同時期の日本では、官職名等を唐風に変更しようとする動きがあり、天皇の称号も皇帝に変えようとする動きがあった。しかし、聖武天皇の諡を皇帝にした場合、「聖武皇帝」となり、安禄山と同じものとなる。そこで、反乱軍の総帥と同じ諡にするのは如何なものかとの声が上がり、沙汰止みになったといわれる。