磯田一郎
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磯田一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、元住友銀行会長、経団連副会長。日本を代表する銀行家。「住友銀行中興の祖」と称された。「最強の頭取」とたたえる声がある一方、「バブルの張本人」との批判もある。
[編集] 来歴・人物
熊本市生まれ。1935年京都大学法学部を卒業、住友銀行に入行。1960年取締役、1977年に頭取、1983年に会長就任。安宅産業の伊藤忠商事への吸収合併で手腕を発揮したほか、東洋工業(現マツダ)、アサヒビールなどの企業再建を手がけた。住友銀行を関西の銀行から、全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から4年で都市銀行で収益トップの座となった。会長時代には平和相互銀行を合併、これに伴う不良債権の償却で再び失った1位の座を、わずか2年後に奪回するなど高収益体質を確立した。
1982年に米金融専門誌の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、1984年には勲一等瑞宝章を受けた。1986年から1989年までNHK経営委員長を務めた。
頭取時代にガンで死期迫る支店長を役員に指名した温情の伝説がある一方、「向こう傷を恐れるな」との言葉通りの強引な収益至上主義の弊害もあらわれ、1990年には仕手グループ光進代表に対する元青葉台支店長の出資法違反事件や、老舗商社の消滅をもたらしたイトマン事件(この事件では、磯田の長女・園子もイトマンとの不明朗な絵画取引で利権を貪っていた。)を招き、批判を浴びたが「イトマンのことは墓場まで持っていく」と沈黙を守り、同年引責辞任した。
その後の住友銀行トップは少なからず磯田の影響を受けた人物であり、いわゆるアクの強い住銀カラーを確立し、現在の三井住友銀行にも受け継がれている。
1986年5月から1990年11月まで経団連副会長。旧制第三高等学校、京都大時代からラグビーの名手として知られ、1936年には来日したニュージーランド学生選抜と全日本代表として対戦。俊足のバックスとして活躍した。1990年から1992年まで日本ラグビーフットボール協会会長。1993年12月3日死去。享年80。