安宅産業
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安宅産業株式会社(あたかさんぎょうかぶしきかいしゃ)は、かつて日本に存在した総合商社である。1904年7月1日に創業され、1977年10月1日に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅した。戦前から戦後にかけて官営八幡製鐵所の指定問屋4社(三井物産、三菱商事、岩井商店、安宅産業)の1社となるなど、10大総合商社の一角として最大売上高2兆6千億円を誇る大企業であった。もともとは「堅実」の社風を特色としていたが、同業他社との売上競争の中で原油取引など新規事業にリスクを無視して進出するようになり、最終的にはそれが破綻の原因となった。
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[編集] 歴史
1904年、安宅弥吉が安宅商会として創業した。創業当初は会社組織ではなく個人商店で、本店を大阪市東区船越町に置いたが、すぐに同区高麗橋に移転した。
弥吉の経営哲学を表した言葉として「蛙跳び経営」がある。蛙は1回跳ぶと、次に跳ぶ前にはいったん身を縮めて力をためる。それと同じように、一歩一歩着実に地歩を固めながら進む、というものであった。他の会社が痛手を受けたような時期、例えば鈴木商店が多額の損失を出した第一次世界大戦直後の不況の局面においても、弥吉は「深追いは何より禁物」として在庫ならびに買いポジションをすべて整理するように強力に指示していた。この時は社内の一部に「まだいける」として指示に従わなかった者があり、多少の損をかぶることもあったが、全体としては適切な時期に適切な整理を行うと共に、攻めるべき局面では攻めの経営を行うことで業績を伸ばしていった。
1942年5月、弥吉は陸軍とのいざこざが原因となって安宅商会社長を退任し、後任には次男の安宅重雄を指名した。長男の安宅英一ではなく、10歳年下である次男の重雄を社長としたのは、英一が自身もピアノを演奏するなど音楽に興味があったこともあって数多くの芸術家のパトロンとなり、月に当時の金額で1万円以上も浪費していたこと、さらには学生時代から靴ひもすら使用人に結ばせるような「殿様気質」を持っており、堅実を信条とする弥吉が「英一には守成の才はないのではないか」という危惧を抱いたためと言われている。また、英一自身も、「社長なんて面倒なことはかなわん」と重雄に社長業を譲ったとも言われている。
しかし、重雄は京都帝国大学出身で、英一のような浪費癖はなく堅実ではあったものの、哲学専攻という学究肌の人物で、商売に精力を傾けるタイプではなかった。それも手伝って、社内は重雄をもり立てる方向ではまとまらず、重雄派と英一派の2つの派閥が生まれることになった。英一派の中心となったのが猪崎久太郎取締役であった。1927年から英一がロンドンに留学した際に猪崎が同地に駐在していた縁もあり、さらには英一を担ぐことによって一気に出世の階段を駆け上ることを狙う猪崎と、実務を担うのは面倒だが安宅産業の実権は握りたい英一の利害が一致したこともあり、猪崎の発言力は増す一方であった。
戦後すぐに、戦争責任問題等もあり、また、英一を担ごうとする猪崎の工作もあって、安宅弥吉翁の前で安宅重雄社長と英一の兄弟が話し合いを持った。その結果、1945年10月に重雄は他の多くの取締役と共に退任し、後任として神田正吉が社長に就任することになった。英一は猪崎を社長に据えるよう重雄に迫ったが、重雄は「神田を社長にしないのであれば僕は退任しない」としてこれを拒否した。猪崎は副社長となり、ロンドン仕込みの英語を駆使して社長の神田を尻目にGHQとの交渉などで活躍して社内の実権を握っていった。この時の部下に、後に安宅崩壊のきっかけを作る高木重雄がいた。猪崎は後に1957年社長に就任した。
戦後処理の中で公職追放をおそれた安宅家は、合計で85%以上を保有していた株式をほとんどすべて手放した。しかし、GHQの占領体制が終焉を迎え、他の財閥指定を受けた一族が株を取り戻して支配力を回復したのに対して、安宅家は株の取り戻しに動かず、保有株式は全発行株数の2%にも満たない状況が続いていた。そのような状況の中で1955年に安宅英一は会長に就任したが、彼は不思議な威圧感を持つ人物であり、社内ではワンマンとして絶対的権力をふるっていた猪崎も英一の前に出るとその言いなりになる状況であった。こうして、実際の社業の切り盛りは猪崎社長が行うが、人事権は創業家というだけで株主でもない安宅英一会長が保持するという二重権力体制が確立していった。この状態は英一が1965年8月に会長を退任後、「相談役社賓」という不思議な肩書きに退いた後も続き、会社の表向きの指揮命令系統とは別に、「安宅ファミリー」と呼ばれる安宅家にゆかりのある社員の一団が隠然たる力を持つことになった。当時の社内風土を示すエピソードとして、上司に異動を言い渡された若手社員が「そんなものはファミリーの力で撤回させてやる」と言い返したという話もある。英一は長男の安宅昭弥を取締役(後に専務)として安宅産業に入社させ、ゆくゆくは社長にしたいと考えていた。その番頭として柴田芳雄を専務に据えるなど、安宅ファミリーの影響力は公然たるものがあった。
1966年には住友商事との合併話があった。戦後にスタートした住友商事は当時まだ規模が小さく、メインバンクが安宅と同じ住友銀行であったことから、住友銀行主導で話が進んだ。猪崎社長は乗り気で話を進めたが、最終的に「相談役社賓」英一の反対で流れることになった。それまで英一の支持をバックに社内では絶対的なワンマンとして君臨していた猪崎社長は、この件がきっかけとなって同年末に会長に祭り上げられた。
猪崎の後を継いだ越田左多男社長も、ことあるごとに人事権を振りかざす英一と衝突して任期半ばで更迭され、1969年には市川政夫が社長に就任した。市川が社長に就任してからも英一を中心とした「安宅ファミリー」の力は強く、人事もままならない状態は続いた。
1973年のオイルショックを機に1975年にカナダにおける精油所プロジェクトが破綻し、1,000億円以上にのぼる貸付金・売上債権が焦げ付くこととなった。その結果、住友銀行の主導の下での解体・再編を経て、1977年10月に伊藤忠商事に吸収合併され、70年以上にわたる歴史に幕を閉じた。(安宅産業破綻の項を参照)
破綻にあたっては、悲願であった総合商社最下位グループからの脱出を目的とする無理な売上向上、創業家による個人的コレクション(陶磁やクラシックカー)への社費の支出をはじめとする企業の私物化、各事業部門が独自に進めたゴルフ場開発をはじめとする本部統制・リスク管理体制の欠如など、数々の問題点が公にさらされることとなった。
安宅産業の破綻に伴い、日本の総合商社は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商の9大商社に再編されることとなった。
[編集] 歴代社長
- 安宅弥吉:創業~1942年5月
- 安宅重雄:1942年5月~1945年10月
- 神田正吉:1945年10月~1957年11月
- 猪崎久太郎:1957年11月~1966年11月
- 越田左多男:1966年11月~1969年11月
- 市川政夫:1969年11月~1976年7月
- 小松康:1976年7月~1977年10月(住友銀行出身)
なお、安宅英一は、1925年~1934年まで取締役、1955年~1965年まで会長に就任したが、社長に就任したことはない。
[編集] 関連項目
- 安宅産業破綻
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- アタカ大機:もともと安宅産業の建設・水処理プラント部門が独立してできた会社であり、現在も日立造船傘下の東証第一部上場企業として存続している。
[編集] 外部リンク
- アタカ大機株式会社
- 住友林業 - 安宅建材株式会社の株式取得に関するお知らせ : 安宅建材は旧安宅産業関連会社としては有数の存在であったが、2005年10月1日住友林業に吸収合併された。