甲山事件
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甲山事件(かぶとやまじけん)とは、1974年に兵庫県西宮市の知的障害者施設「甲山学園」(事件後閉園)で園生(当時の呼称)2人の死亡事故が発生したことに端を発する刑事事件である。
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[編集] 事件の経過
1974年3月17日、園生の女児(12歳)が行方不明となる。同月19日、園生の男児(12歳)も行方不明となる。同日に学園の浄化槽から2人の溺死体が発見された。
事件発生当初の4月7日、同施設の23歳の保母(当時の呼称)の女性が園児殺害の容疑で逮捕されたが、証拠不十分で不起訴となり釈放。これに対し被害者の男児の遺族が検察審査会に不服を申し立て、検察審査会が「不起訴不当」の決議を出したため、警察による再捜査が始まった。その後検察が行った再捜査時に園生から「女性が園児を連れ出すのを見た」という証言が得られたとして、1978年に女性は再逮捕。同年殺人罪の容疑で起訴された。
1985年、一審の神戸地方裁判所は無罪判決を出すが、検察はこれを不服として控訴。これに対し1990年、大阪高等裁判所は無罪判決を破棄し、地裁へ差し戻す判決(これを実質的な有罪判決と見る向きもあるが、第二次控訴審では「審理不十分という前提での破棄であり、積極的に有罪を認めたわけではない」と判断された)を下した。これに対し、女性側は最高裁判所へ上告するが、最高裁は1992年に上告を棄却し、神戸地裁への差し戻しが確定した。
1998年、差し戻し第一審の神戸地裁は再び女性に無罪判決を出すものの、検察は再び控訴。1999年大阪高裁は女性に無罪判決を言い渡し、検察は最高裁への上告を断念。事件発生から25年が経過しようやく女性側の無罪が確定した。事件当時23歳だったこの女性は、この年には48歳になっていた。
事件発生から25年、裁判開始からも20年以上が経過するという、再審を含まない一般事件としては史上最長の裁判となっただけでなく、1999年の第二次控訴審では弁護団が総勢239人(その中には中坊公平ら日弁連会長経験者3人が含まれる)にまで膨れ上がるという、ある意味で異例ずくめの事件だった。
この事件は無罪判決に対する検察官の上訴が被告人の人権を侵害した代表例とされ、憲法に違反するとの立場から検察官の上訴を禁止するべきとの意見があるが未だ見直しには至っていない。
[編集] 関連項目
[編集] 文献
- 浅野健一編『英雄から爆弾犯にされて アトランタ五輪爆弾・松本サリン・甲山事件』三一書房、1998年4月、ISBN 4380982300
- 木部克己『甲山報道に見る犯人視という凶器』あさを社、1993年10月、[1]
- 清水一行『捜査一課長』祥伝社、1979年5月、集英社文庫版: 1983年1月、ISBN 4087506460、[2]、[3]、[4]、[5]
- 丹治初彦、幸田律(共著)、市民評論編 『ドキュメント 甲山事件』市民評論社、1978年5月、[6]
- 松下竜一『記憶の闇 甲山事件〈1974→1984〉』河出書房新社、1985年4月、ISBN 430900394X、『記憶の闇』(松下竜一 その仕事〈20〉)、2000年6月、ISBN 4309620701
- 山本登志哉編著『生み出された物語 目撃証言・記憶の変容・冤罪に心理学はどこまで迫れるか』北大路書房、2003年5月、ISBN 476282318X
[編集] 外部リンク
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