現実
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あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を外から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる場のことである。
現実と区別されるものは、夢や想像、観念、虚構(現実を装った虚偽ではない)など、思い描かれたり、仮定されたり、似せて作られたもの、擬えて作られたりするものなどである。
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[編集] 概要
西欧由来の概念であり、対応するRealityはラテン語のres(もの、実在)に遡り「名目でないもの」という語義に関係し、Actualityはagere(行う、代行する)に遡り「為されたもの、活動している、働いている」という語義に関係する。
漢語としての現実は、見ることに由来して迫真性、臨在性、現前性を意味する「現」と充実性、真正性を意味する「実」から構成される。ここで視覚に対して主体が受動的でしかない点、現実という概念の特徴がよく表現されている。この点で、主体によって能動的に発見され、覆いを取られるべきものという含意をもつ「真実」とは異なる。
現実はまず、行為や経験の領域の全体である。しかし、幻想や錯誤や虚構の可能性があるため、主観的に経験される現象と現実はイコールではない。懐疑主義的な議論においては、同じ現実を人々が共有していることをいかにして保証するかが問題となる。(その根拠付けとしてのたとえばカントの物自体)
もちろん、現実の同一性の基準も問題である(現象的経験の共有を現実の共有の基準としないという立場も可能である)が、必ずしも現象的なコミュニケーションの一致(世界のありようへの意見の一致)は、同一の現実の共有を、厳密には保証しないという議論も可能である。
また、仮想現実の場合、「上位」あるいは「より基底的」な現実に対し「下位」の現実は虚構の側面を有することになる。
[編集] 虚構、および理想との関係
虚構はまずもって、現実にないものを表現できる言語によってつくられたものである。非言語的なものからなるように見える虚構も、言語が介在して初めて、虚構として成り立つ。したがって、虚構は、本質的に、「つくられたもの」という客体・結果としての性格を持つ。また、同じに、そうであるからには、そこからつくりだされるべき源泉、「模倣・ミメーシス」のもとが必要であり、これが現実である。ここからは虚構に派生性、二次性がもたらされる。
虚構とともに現実と対比される理想は、あるべきものとされた虚構であるといっていい。それは原則的にはいまだ現実化していないことと、これから現実化しうることという二つの条件を持つ。
理想は、現実に対して主体の実践を課す。そのため理想の実現に対する障害としての現実が強調される。外的な制約条件である現実は、主体に対する外的な干渉と抵抗という側面に着目した概念でもある。この点、客観的な対象化を前提しており主体を除外した「事実」とは異なる。
現実は実践的な行為の対象である点、「もの」という由来と結びついている。たとえば加工に抵抗する素材の硬さなどの困難が、現実という概念の原型なのである。さらに現実に対する抵抗への試みと限界・挫折は、主体に対する外的な制約条件としての現実の輪郭をあらわにする。そのため現実主義というとき、妥協的な態度が意味される。この点でも、現実は不可能性と深く結びついている。
[編集] 現実と、不可能なものの排除
現実とは、行為や経験が意味を為す、結果・効果を有する領域であるともいえる。この点で、不可能と見こまれるものを排除して残った領域が現実であるとみなすこともできる。そんなことは「非現実的だ」というような、現実化しそうにはない可能性も含めて、現実という言葉を用いる場合、この意味が問題となっている。
しかし他方で、「リアリティを感じる」とか、「これが日常とは異なった現実そのものだ」というような、ルーティンで整合的な日常が、制度と言う意味で「つくられたフィクション」として機能しているとき、「現実」はそうしたものを破壊したり、そこに侵入したりする、外部的な、偶然的で出来事的な逸脱や暴力的アクシデントによって自覚される。このようなとき、現実は、不可能と見こまれていたものの側に属する。
[編集] 思想史
現実という概念は元来、現世と来世の対立、および現在と過去や未来という対立、そして夢・虚構と現実との対立という、どれも歴史的には宗教的な含意をもっていた対立項に由来すると考えることができる。東洋に於いてはしかし、この「現に」という意味要素が、思想的に着目され、練り上げられることはほとんどなかった。
[編集] 東洋思想
仏教においては、現実と現象・仮象との対立が否定され、すべてが関係性のなかにおける現象であると規定されたため、仏教的な思惟においては、そうした純粋な関係性である縁起や空が逆説的な意味で現実にあたるものであるが、それは否定的に規定されたものであるので、現実性が固有の考察の対象にはならなかった。他方で、ままならない現実という側面は無常や非我という概念でカバーされる。
中国哲学においては、一般に唯名論的傾向が強く、現象から現実は区別されない。むしろ現象と現実との区別は宗教的領域の問題であった。ことに老荘的な思想にあっては、相対的な個別の認識をこえた万物斉同というものが提出されるのであるが、この場合、個別の主観を超えた現実性というものが想定されているわけではなく、それらの認識の間の相対性が強調された。ただし、朱子学にあっては知識の完成のためには実事求是、現実の世界の対象にあたらなければならない、というテーゼが存在し、主体と現実との対立関係が意識されているといえる。
[編集] 西洋思想
ギリシア哲学においては、プラトンはこの現象世界を真の実在であるイデア界の影として規定した。すなわち、ちょうど現実と仮想現実との関係のように、経験される現象世界は、実在する世界であるイデア界の下位の現実であると理解されていことになる。このように、かれは現象世界をすでに虚構と見ていたため、詩などの虚構作品を、虚構の虚構、コピーのコピーとして高く評価しなかった。アリストテレスは可能態(潜勢)と現実態(現勢)、質料と形相という様相的区別を考えた。
ドイツ哲学においては、イマヌエル・カントはさまざまな認識によって異なったように構成されうる現象の背後に要請される物自体という概念を考えた。またカテゴリー表においては現実性の図式を一定の時間における現存在と解し、何れかの時間における現存在としての可能性の図式と区別した。判断表においては様相判断としての実然性(現実性)を蓋然性(可能性)と区別した。様相判断は対象の概念にはなにものも加えず、現実的な100ターレルと可能的な100ターレルとは概念内容は同一ではあるが、ただし我々に対しては異なった意味を有するとした。またヘーゲルも現実性という用語で様相的区別について考えた。この系譜でのちにハイデッガーが現実存在という概念を提案し、これがサルトルなどの実存主義を生み出した。
現代思想においては、精神分析の分野では、まずフロイトが即時の快楽の充足を求める快感原則に対していったん不快を選択することでその後の快楽を迂回して獲得しようとするものとして現実原則を考えた。その後、ジャック・ラカンが、言語や、空間的な秩序だった認識の世界にとりこまれることに抵抗する、外界の削減できない余剰として、現実界(現実的なるもの)という概念を提案した。可能世界論においては、現実世界は、偶然ではない可能な諸世界の一つとされる。
[編集] 用例
宮に参りあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば夢なりけり 更科
[編集] 関連項目
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