源義綱
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源 義綱(みなもと の よしつな、長久3年(1042年)? - 天承2年(1132年))は、平安時代の河内源氏の武将。京都の賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と称する。
[編集] 生涯
源頼義の子。河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏の香炉峰の館に生まれる。母は平直方の女で、兄八幡太郎義家、弟新羅三郎義光と同腹である。
父や兄と共に前九年の役で戦い、その勲功を賞され天喜6年(1058年)2月25日に右衛門尉へと任ぜられる。兄の義家とは不仲で、寛治5年(1091年)5月に河内国にある郎党たちの領地をめぐり合戦寸前にまで至っている。
寛治7年(1093年)、出羽守信明(姓不詳とされてきたが『後二条師通記』に同年の出羽守源信明とある)が平師妙と子の平師季に襲撃され殺害された。隣国陸奥守を務めていた義綱に追討が命ぜられた。遙任をしていた義綱は自ら下向する前に郎党を派遣した。その郎党は師妙を斬り、乱を鎮圧した。義綱はその功で従四位下に序せられ美濃守に転任した。
嘉承元年(1106年)7月1日に兄源義家が没した。義家は四男の義忠を後継者に指名していた。天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠が斬りつけられ、5日後に死亡する事件が発生した。義綱父子は義忠を殺害したとして疑いをかけられて逃亡したが近江の山中で源為義に捕縛され、降伏して出家後、佐渡に流罪となる。この時、六人の息子が不幸な最期を遂げている。長男義弘・次男義俊は谷に身を投げて投身自殺し、三男義明は義忠殺害の張本人とされて追っ手に追われて戦死、四男義仲は火に飛び込んで焼身自殺、五男義範は切腹、六男義公は自害、という様相であった。
1132年、配流先の佐渡で再び源為義の追討を受けて自害。後に、義忠殺害は冤罪であり、真犯人は源義光であった事が判明した。
祖父の源頼信、父の源頼義、兄弟の源義家、源義光と共に、河内源氏の氏神である壷井八幡宮に併設されている壷井権現に祀られている。
[編集] 系譜
- 父
- 母
- 平直方の女
- 兄弟