浅野長勲
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浅野 長勲(あさの ながこと、天保13年7月23日(1842年8月28日) - 昭和12年(1937年)2月1日)は安芸広島藩の第12代(最後)の藩主。また明治時代から昭和時代にかけての政治家。
父は第7代藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋の八男・浅野懋昭(長勲は長男)。母は沢氏。正室は山内豊熈の娘。官位は正二位侯爵、元老院議官、イタリア公使。
[編集] 生涯
1842年7月23日生まれ。幼名は為五郎。初名は長興、茂勲。
1856年2月、浅野長訓の養嗣子となり、はじめ青山内証分家の家柄、つまり広島新田藩を継いだ。
1862年、今度は本家の藩主となっていた長訓の養嗣子となる。その後は幕末期の動乱の中で、養父・長訓の補佐を務めた。江戸幕府と朝廷の折衝は、この長勲が務めている。
1867年には大政奉還の建白書を土佐藩、長州藩と共に幕府に提出した。その後の小御所会議にも出席している。
1869年正月24日、長訓の隠居により後を継いだ。同年6月に版籍奉還で藩知事となり、その後は藩政改革を務めたが、1871年7月の廃藩置県で免官され、東京へ移った。しかしこのとき、百姓一揆が起こっている。
明治政府のもとでは元老院議官やイタリア公使、貴族院議員を務め、1884年に侯爵となる。その後も広島県内における諸事業の支援や各種産業の開発援助などに務めた。
また、1926年11月には浅野図書館を開館。のちに広島市立中央図書館になる。
1937年2月1日、96歳の長寿をもって死去。墓所:広島市の新庄山墓地。
[編集] 最後の藩主
「最後の藩主、最後の大名」と呼ばれる人物としては、一般的に旧上総請西藩主の林忠崇か旧近江大溝藩主の分部光謙とされているが、忠崇は戊辰戦争後に改易され、光謙も最後の大名というだけの事蹟が乏しすぎるため、この長勲が最後の大名としては最もふさわしいと言われており、また、当時においては「最後の大名」として有名でもあった。
- 浅野氏(広島藩12代)藩主
- 1869~1871
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- 先代:
- 浅野長訓
- 次代:
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