浅野長訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野 長訓(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、江戸時代末期の大名。安芸国広島藩の第11代藩主。第7代藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋の九男で、当初は支藩の広島新田藩主だった。
文化9年7月29日生まれ。幼名は千之助。名は長訓のほか、茂長。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。安政5年に先代藩主の浅野慶熾が死去したため、その後を継いで藩主となる。
先々代の藩主・浅野斉粛の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀と辻将曹の両名を家老として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。1866年、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張した。
明治2年正月24日、長勲に家督を譲って隠居し、明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所:広島市西区己斐上町の国泰寺。
- 浅野氏(広島藩11代)藩主
- 1858~1869
-
- 先代:
- 浅野慶熾
- 次代:
- 浅野長勲