分部光謙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
分部 光謙(わけべ みつのり、文久2年11月3日(1862年12月23日) - 昭和19年(1944年)11月29日)は、近江大溝藩の第12代(最後)の藩主。第11代藩主・分部光貞の子。官位は従五位、従四位。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 藩主就任
幼名は竹之進。または掃部助。初名は光明。1870年4月12日に父が死去したため、名を光謙と改名した上で同年7月25日に9歳の幼少で家督を継いで藩主となった。その4日後の7月29日には藩知事となる。このため、光謙にもわずか4日間だけだが、藩主としての時期があったのである。
[編集] 不可解な行動
藩知事となった翌年の6月23日、まだ廃藩置県が行なわれていないにも関わらず、光謙は藩知事を辞任してしまった。このため、大溝藩は廃藩となり、大津県に編入されたのである。その後、光謙は東京へ移って学習院へ入学し、学士の資格を取得した。1884年には華族令により子爵に列せられ、その後も従四位に序せられるなど、何不自由ない生活が続いていた。
ところが成人後の光謙は競馬にのめり込んでしまい、当時最強の名馬とも言われた「岩川」など多数の馬を所有する日本最大の馬主となる。こうした光謙の浪費とも言える行動が華族社会でも問題視されていった。そして光謙は1902年に子爵をはじめとする全ての爵位・官位を返上して大溝に戻る。その後は高島で余生を送り、太平洋戦争も末期にさしかかった1944年11月29日、83歳という長寿をもって死去したのである。
[編集] 最後の藩主か?
通説では、江戸時代の最後の藩主は、上総請西藩の林忠崇(戊辰戦争で幕府側について改易、昭和16年死去)としている。事実、お互いの生涯の経歴を見ても、忠崇のほうが最後の藩主としてふさわしい経歴を持っているのに対して、光謙は最後の藩主と言っても、その在位期間は1年にも満たないし、9歳という幼年でもあった。しかも明治時代には爵位を返上している。このため、光謙が最後の藩主として見られることはほとんどなく、その存在もきわめて薄い藩主であるとしか言いようがない。