浅沼稲次郎暗殺事件
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浅沼稲次郎暗殺事件(あさぬまいねじろうあんさつじけん)とは、1960年10月12日午後3時ころ、日比谷公会堂において演説中の日本社会党(現社民党)委員長・浅沼稲次郎が17歳の右翼少年に暗殺された事件。
日本におけるテロの一つ。なお、約4ヶ月後にも少年による類似の右翼テロ(嶋中事件)が発生している。
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[編集] 事件の概要
この日日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていた。浅沼委員長はこの日午後3時ころ当該演説会の演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼の野次が激しくなり、司会者は自制を求めるが野次はやまなかった。その後浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を始めたところ、突然短刀(のちに銃剣と判明)を持った17歳の少年が壇上に駆け昇り、浅沼の胸を2度突き刺した。浅沼は出血多量によりほぼ即死であった。
少年はその場で現行犯逮捕、11月2日夜、東京少年鑑別所で歯磨き粉を溶いて書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後、首を吊り自殺。
公党の党首に対する暴挙を防げなかったとして山崎巌国家公安委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、またVIP警護の手法が改められる事になった。
[編集] 事件と報道
この立会演説会にはNHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1で中継されていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に全国へ放送された。また日本シリーズ(大洋×大毎戦)中継のため15時45分からの録画中継を予定していたNHK総合テレビも、15時13分に野球中継を急遽中断してテロップ速報を出し、15時21分には事件の生々しい様子を収めたVTRを放送した。さらに日本シリーズ試合終了後の15時43分には、臨時ニュースで浅沼の死亡が報道された。
その後も犯行の瞬間をとらえたVTRが何度も放送され、全国の視聴者に大きな衝撃を与えた。犯行場面の放送については賛否両論が相次いだ。当時のNHK報道局長であった佐野弘吉は、このVTRが持つ報道映像としての意味を重視して放送に踏み切ったことを語った。この日NHKと民放各局は、通常の番組を変更して特別番組を編成した。特別番組ではいずれも民主主義と議会制度を暴力で否定する政治テロが非難され、暴力の排除が強く訴えられた。
事件はまた、放送そのものにも影響をもたらした。事件以前から指摘されており方針が決まっていたテレビ番組からの暴力場面の追放の動きについても、この事件がきっかけとなって大きく加速していった。
毎日新聞の長尾靖カメラマンは、少年が浅沼にとどめを刺そうとする瞬間を撮影し、日本人初のピューリッツァー賞を受けた。
なお、現在昭和史を扱ったドキュメンタリーなどで使われる犯行の瞬間の映像は、当時の慣例でVTRをキネレコ方式で転写し保存されているものがよく使われているが、オリジナルのVTRもNHKで保存されており、2003年の放送記念日特集番組で放送されている。
サザンオールスターズのエロティカ・セブンのPVの一部にこの犯行場面の映像が使われている。
[編集] 犯人
犯人は山口 二矢(やまぐち おとや、1943年2月22日 - 1960年11月2日)。日本の右翼活動家。東京都生まれ。
陸上自衛隊二佐であった厳格な父と優秀な兄のもと、頭を押さえつけられるように育ったとされる。玉川学園高等部に進んだが、1959年、16歳で赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、玉川学園高等部を退学。事件当時は大東文化大学の聴講生だった。なお、事件の1ヶ月前に大日本愛国党を脱党している。
なお、犯人は後に拘置所で首吊り自殺を遂げ、右翼団体は盛大な葬儀を行い英雄視した。ただし沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、テロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎など政治家もリストに加えており、なかには「大東亜戦争」批判を行ったとして三笠宮崇仁親王まで狙っていたという。山口二矢のポケットにあったとされる遺書の文面は以下の通り。
[編集] 遺書
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢