江本孟紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現・香美市)生まれ、同県高知市出身のプロ野球選手、野球解説者、政治家、タレント、俳優。愛称は「エモやん」。あるいは「エモさん」「エモ」。
目次 |
[編集] 来歴・人物
- 高知商業高等学校時代西鉄ライオンズからドラフト指名されるが、4位という下位指名だったため拒否し、法政大学経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であった。4番でピッチャーの自分が4位で3番バッターの浜村が1位であることに納得できなかったと江本は著書で語っている。法大の1年先輩には田淵幸一と山本浩二、同期には六大学リーグの最多勝記録保持者・山中正竹がいるが、山中が卒業したのに対して江本は卒業していない。
- その後、社会人野球熊谷組へ進み、1971年ドラフト外で東映フライヤーズに入団した。中継ぎしか出番がなかったことから、翌1972年に南海ホークスへ移籍する。一説によれば野村克也監督兼捕手が、江本の素質を見抜き、断られるのを承知で東映に高橋博士捕手と、当時東映のエースであった高橋直樹投手との交換トレードを提案し、予定通り断られて代わりに江本を交換相手に希望しトレードが成立したとも言われる(最初から江本を希望すると、東映側が「1年目のルーキーを野村はそんなに買っているのか」と警戒して応じてくれないだろう、と踏んだという。しかしよく考えてみれば、エースの次に評価していたという風に取られ、余計に警戒されそうなものではあるが)。
- 野村監督のもと、才能を開花させ、この年16勝をマーク、先発、中継ぎを無難にこなし、1973年のリーグ優勝(胴上げ投手)に貢献。優勝決定の試合では最終回、一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘登場の場面をリリーフ、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。が、本人は急遽当板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと、後に著書で述べている。同年の日本シリーズでは第一戦で勝利投手となる。
- 1976年に江夏豊との交換トレードで島野育夫とともに阪神タイガースへ移籍。この際江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後和解している。阪神では先発として活躍するも、巨人から移籍した小林繁にエースの地位を奪われる。練習は手抜きの名人。
- その後中西太監督の起用に不満を募らせ、1981年8月26日の対ヤクルト戦で、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役引退。ちなみに、同じ日の巨人-中日戦(後楽園球場)で宇野勝のヘディング事件が起こった。当時捕手だった若菜と絶えず黒い交際が噂されていた。
- 1982年 フジテレビ、ニッポン放送野球解説者のかたわら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、1985年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組なんてったって好奇心の司会を務める。
- 1982年発行の著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が200万部を超える大ベストセラーになる。
- 1992年7月 第16回参議院議員通常選挙にスポーツ平和党より、参議院比例代表選出で初当選。
- 1995年 無所属に。自由連合、無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。
- 1997年12月26日 フロムファイブの結成に参加。そのまま民政党、民主党に合流。
- 1998年7月 第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。
- 2004年 民主党を離党。大阪府知事選挙に立候補するが落選。
- 同年10月、アメリカ合衆国のセミプロ野球・独立リーグ所属の「カルガリー・フォース」(ノーザンリーグ所属)の特別顧問=スペシャルアドバイザーに就任。就任会見の席で2006年度からの「日本独立リーグ」の設立構想を明かす。
- 2005年、ニッポン放送の株式保有問題に関して、「ニッポン放送をホリエモン(堀江貴文率いるライブドア)が買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。同年11月、それまで支援してきた独立リーグ「ゴールデンベースボールリーグ」参加のチーム「ジャパン・サムライ・ベアーズ」に代る日本のクラブチーム「京都ファイヤーバーズ」を社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。
[編集] ベンチがアホ事件の真相
1981年8月26日、阪神は死のロードから帰ってきたヤクルトとの1戦目の先発で、当時江本は首を痛めて2軍で調整中だった。首脳陣は連敗すると打線や先発ローテーション指揮が迷走を始めた。その時好調だった江本はその試合で8回まで4対1と抑えていたが、同回につかまり3連打浴びて1点差。2アウトランナー2塁、バッターは8番打者。ベンチが出てきて敬遠かリリーフに代える状況であるが、指示はない。
江本がベンチを見ると監督はそそくさと中へ入っている。しょうがないからと1球様子を見るために高目に投げたが外し切れなかった。バッター飛びついて打ったから外野は大慌て。そして2塁ランナー生還で同点。「なんでわざわざ俺を先発させて8回まで投げてるのに見殺しにしたんやろ?」とベンチの采配に腹を立てたのが1番の理由。後は取材に来た記者とのやりとりでそうなった。
江本が後に語ったところによると江本は降板した後ぶち切れて罵詈雑言を連発していたが外で聞いていたスポーツ新聞の大阪本社の記者達が罵詈雑言の中から「アホ」・「ベンチ」・「野球」・「でけへん」という言葉を拾い「ベンチがアホやから野球がでけへん」と勝手に作ったとの事。当時大阪のスポーツ新聞は藤村排斥事件以来の悪しき伝統で何の吟味もせずにスポーツ紙の一面を飾ろうという考えがあって事件は悪しき伝統が遠因といえる。
ちなみに、これと同じ日に、宇野勝の「ヘディング事件」があった。
[編集] 背番号
- 49 (1971年)
- 16 (1972年~1975年)
- 29 (1976年~1981年)
[編集] 通算成績
- 113勝126敗19セーブ
[編集] タイトル・表彰
- オールスター出場5回
[編集] その他
- 通算24ボークは日本記録
- 趣味はバロック音楽鑑賞
- 好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演。
[編集] おもな著書
- プロ野球を10倍楽しく見る方法(KKベストセラーズ 映画化、続刊された)
- 江本孟紀のプロ野球ウオッチング(共同通信社)
- ベースボールはひとつの小石から(学習研究社)
- 総理大臣 長嶋茂雄(飛鳥新社)
- ダメ虎を猛虎に復活させる方法(ビジネス社)
- 2002年版プロ野球を10倍楽しく見る方法(日本文芸社)
[編集] ディスコグラフィー
- 霜降り橋まで(1980年)
- アカシヤの面影(1982年)