橋本以行
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橋本以行(はしもと もちつら、1909年(明治42年)10月14日 - 2000年(平成12年)10月25日)は、大日本帝国海軍の軍人。京都市出身。最終階級は海軍中佐。戦後は梅宮大社名誉宮司、大神宮社宮司
潜水艦『伊58』艦長時、原子爆弾をテニアンまで運搬したアメリカ海軍の重巡洋艦『インディアナポリス』を撃沈した事で有名。
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[編集] 略歴
- 1931年(昭和6年) - 海軍兵学校(59期)卒
- 1942年(昭和17年)2月 - 潜水学校甲種学生
- 7月 - 潜水艦「呂31潜」艦長
- 1943年(昭和18年) - 潜水艦「伊158」、「呂44」艦長
- 1944年(昭和19年) - 潜水艦「伊58」艦長(~終戦)
- 1945年(昭和20年)7月30日 - 米海軍重巡洋艦『インディアナポリス 』を撃沈。
(この艦には、新潟または札幌に投下予定の3発目の原子爆弾が搭載されていたとする説もあるが、テニアン出航後に原爆を搭載していたとは考えにくく、信ぴょう性は薄いとされている)
- 2000年(平成10年)死去、享年91歳
[編集] 『インディアナポリス』雷撃
回天特別攻撃隊『多聞隊』を乗せた『伊58』は、敵艦を攻撃する為にパラオ島北方250カイリ付近を哨戒中であった。7月30日午後11時35分頃、水平線上に敵大型艦らしき物を確認し急速潜行を行い、潜望鏡深度を保ったまま敵艦に近づいて行った。潜望鏡で敵艦艇を戦艦クラスと確認した橋本潜水艦長は、回天搭乗員に出撃命令を下すと共に魚雷戦用意の命令を下した。
回天特攻による攻撃を考えた橋本潜水艦長であったが、前日に2機の回天を出撃させていて、回天での攻撃は不十分(まだ4機の回天を搭載していた)と考え(後年の回顧によると、無駄な特攻による戦死者をこれ以上出したくなかったとも述べている)、さらに敵艦を完全に捕捉しているので魚雷による攻撃でも充分と判断した。 明けて午前0時2分に、距離1500mから6本の魚雷を深度4m、速力48ノット、それぞれ3度の角度で扇状に3秒間隔で発射した。その内の3発が(アメリカ軍によると2発)命中し、インディアナポリスは大きく右舷に傾き、僅か15分ほどで轟沈した。 橋本潜水艦長は「アイダホ型戦艦撃沈確実」と報告したが、自らが沈めたこの艦が『インディアナポリス』であった事、そしてその艦が広島・長崎に投下された原子爆弾を輸送した帰りだった事を知ったのは戦後の事であった。
[編集] 鎮魂の日々
橋本潜水艦長と『伊58』は、その後も作戦を続けるが幸運にも生還した。
戦後は神官の資格を取り、梅宮大社の神官となる。図らずも回天特攻隊員を運送する任を負っていた事・回天搭乗員を出撃させ戦死させた事・もっと早く哨戒海域に着いていれば、広島・長崎への原爆投下を防げたのでは(マリアナ島入港前の『インディアナポリス』を撃沈できたのではないか?)と云う自責の念から、太平洋戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈る日々を送ったと云われる。
あるドキュメンタリー番組の中で、戦後アメリカ軍によって接収された『伊58』が、魚雷による撃沈処分されるシーン(アメリカ国防省に保存されていたカラーフィルムで、番組のスタッフは橋本氏の心情を考えて「御覧になりますか」と聞いたが、橋本氏は「是非とも見せて下さい」と答え、フィルムを流している)を見て静かに涙を流し、「あの艦は私の人生の全てでした」と語っている姿が放映されている。
[編集] 著書
- 『伊58潜帰投せり』 (学習研究社) ISBN 4-05-901028-6
- 『日米潜水艦戦―第三の原爆搭載艦撃沈艦長の遺稿』光人社