棚橋弘至
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棚橋弘至 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 棚橋弘至 ターナー・ザ・インサート |
本名 | 棚橋弘至 |
ニックネーム | 太陽の天才児 |
身長 | 181.5cm |
体重 | 103.5kg |
誕生日 | 1976年11月13日 |
出身地 | 岐阜県大垣市 |
所属 | 新日本プロレス |
スポーツ歴 | 学生プロレス |
トレーナー | 藤波辰爾 武藤敬司 佐々木健介 |
デビュー | 1999年10月10日 |
棚橋弘至(たなはし ひろし、1976年11月13日 - )は、新日本プロレス所属のプロレスラーである。血液型はO型である。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] ヤングライオン時代まで
- 岐阜県立大垣西高等学校では野球に熱中する。1995年に卒業後、一般入試で立命館大学法学部に入学。大学ではプロレス同好会に所属。当時のリングネームは「ターナー・ザ・インサート」。
- 学生プロレス時代、先輩にはレイザーラモンの出渕誠が在籍していた。また同志社大学の学生プロレス同盟の住谷正樹(レイザーラモンHG)と対戦した経験がある。当時からプロ顔負けの肉体を誇っており、他の学生レスラーとは一線を画していた。これまで本人はプロレス同好会に在籍していたことを公の場では口にしてこなかった。これは新日本プロレスの大半のレスラーはアマチュアプロレスを快く思わないことに起因する。しかし2006年3月に新日本プロレスがエンターテイメント性を重視した新イベント「WRESTLE LAND」を立ち上げることを発表したのを機に方針を転換し、同年4月に東京スポーツ紙上でレイザーラモンHGと対談した際に自らが学生プロレス出身であることを認めている(ただし「ターナー・ザ・インサート」と棚橋が同一人物であるかどうかについては明言を避けた)。
- 1999年、大学卒業。すぐに新日本プロレスに入門する。
- 同年10月10日、真壁伸也(現・真壁刀義)戦でデビュー。
[編集] キング・オブ・ザ・ヒルズ時代
- 2001年5月18日、怪我から復帰した同期入門の鈴木健三(後に鈴木健想に改名)と、タッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ(King Of The Hills)」(略称:KOTH)を結成。棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で「タナケン」コンビと呼ばれ、ヘビー級のタッグ戦線を盛り上げる。
- 2002年3月14日、鈴木が病気によって再び欠場に入ると、佐々木健介とタッグを結成。5月2日には、東京ドームでスタイナー・ブラザーズと対戦。
- 同年6月20日、自らに健介、復帰した鈴木とブルー・ウルフを加えた4人で新チーム「SWING-LOWS」を結成。健介がリーダーではあるが、KOTHの発展形と主張し、本隊と一線を画して新日本のトップ獲りを目指す。
- しかし10月に健介に新日本退団問題が発生した為、11月3日、SWING-LOWSを解散して新生KOTHを結成。棚橋&鈴木のKOTHにウルフを迎える形での3人組ユニットとなった。このトリオで大会「トライアスロン・サバイバー」にエントリーしたが大会前の公開練習で鈴木が高山善廣とタッグを組みたい意向を示し年内での解散を宣言した。だが大会公式戦消化中の11月28日、別れ話のもつれから交際相手の女性タレントの原仁美にナイフで背中を刺される。一時生命が危ぶまれる状態(人体の総血液量の3分の1にあたる1.7リットルの血液を出血し、一時危篤状態であった。一般人であれば刺された時点で即死であったと言われた。)に陥るが、マスコミは何故かその部分を報道しなかった。しかし一方で、事件に至るまでの棚橋の言動には加害者の心情に対する配慮に欠けるところもある、と裁判では指摘されており、これも報道が抑制された一因と見られる。
[編集] 刺傷事件からの復帰後
- 2003年、4月23日にU-30王座(後にU-30無差別級王座に改称)を、6月13日に吉江豊とIWGPタッグ王座を、11月30日に永田裕志とGHCタッグ王座を続けざまに獲得し、12月14日にIWGPタッグ王座から転落するまでの約半月間、3冠王となる。
[編集] 新闘魂三銃士時代
- U-30無差別級王座長期防衛のさなかの2004年初め頃から、棚橋・中邑真輔・柴田勝頼の3人が「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになる。しかし、当の本人たちはこのことをあまりよく思っていなかった。「G1 CLIMAX 2004」では、その全員が決勝トーナメント(ベスト6)へ進出する中、3人中最高の準優勝という成績を残す。
- 同年12月11日、中邑とのコンビで再びIWGPタッグ王座を獲得。再改称されたIWGP・U-30無差別級王座と合わせて、IWGPの2冠王として君臨する。
- 2005年1月4日、中邑とのU-30タイトル戦に敗戦。2年近く保持していた王座から転落する。しかし、後に中邑がU-30無差別級王座を封印するもののフロントの意向により撤回、返上と改められ、同年6月に行われた王座決定戦を制して同王座に返り咲く。この後、柴田の退団により新三銃士は消滅する。
[編集] 新闘魂三銃士以降
- 2005年4月、春のG1ことNEW JAPAN CUPで優勝。
- 2005年7月18日、NOAH東京ドーム大会に参戦。力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦した。ドラゴン・ロケットの三連続失敗などが原因で敗北した。「このままでは新日本に帰れない」と試合後述べるものの、継続してノアには参戦せず、新日本のシリーズにそのまま戻った。
- 2006年1月、アメリカのプロレス団体TNAに出場。
- 2月19日両国国技館で永田裕志からドラゴンスープレックスからのエビ固めで永田から初のピンフォール勝ち。
- 5月13日第1回WRESTLE LANDでは、黒のショートタイツで試合を行いタイガーマスクに勝利。「足の毛を剃るのが大変だった」と語る。第2回では試合中に臀部をほとんど出してしまった。
- 7月17日札幌でIWGPヘビー級王者ブロック・レスナーへ挑戦予定だったが、中止。それに伴いレスナーから剥奪された王座を競うトーナメントでジャイアント・バーナードに勝利し、優勝。45代王者となった。
- IWGP王者として臨んだG1 CLIMAXでは小島聡、ジャイアント・バーナードに破れ屈辱の予選落ち。その後10月8日のEXPLOSION ~爆発~でG1を制覇した天山と対戦しハイフライフローで勝利し初防衛に成功。
- 12月10日にはライバル中邑真輔に勝利し防衛成功。1月4日に太陽ケアの挑戦を受ける。
[編集] その他
- 鈴木健三が不動のタッグパートナーだったが、2003年鈴木がWJプロレスへ転出すると、様々な選手とコンビを組むようになる。4月28日と6月13日に蝶野正洋&天山広吉のIWGPタッグ王座に連続挑戦した同世代の吉江とは強い絆で結ばれているのかと思いきや、プロレスリング・ノアへの参戦時には吉江ではなく先輩の永田と組んで出陣。そこでも見事GHCタッグ王座獲得を果たし、新日本では吉江と、ノアでは永田とタッグ王者に就いているという状態になってしまう。事件後の療養から復帰した後だっただけに一部から「ここでも二股か」と揶揄された。両王座からの転落後の2004年12月11日には、中邑と組んで王座決定戦に勝利しIWGPタッグ王座に返り咲く。今後は新三銃士の同志・中邑とのチームに専念するのかと思われたが、2005年1月16日に又もやIWGPタッグ王者のまま、吉江とのコンビを復活させて全日本プロレスへ出向き世界タッグ王座決定戦を戦った。
- 2005年から「週刊プロレス」で、「ドラゴンノート」を隔週連載している。内容は「タナ番」と呼ばれる番記者とのトークで、棚橋自身が新日本プロレス入門以前からの週刊プロレスの愛読者であるため、フリーライターのマコ・スガワールの口癖である「ひどいよ!!」を決め台詞としている。
- マクドナルドのCMに中邑真輔と共に出演している。その後、マスコミに対してのコメントで「新日本プロレスのマッチメイクはファーストフード化している」とファーストフードを否定的比喩として用いた。
- マスクマン魔界二号として参戦していたKAIENTAI-DOJOの筑前りょう太と髪の毛とマスクをかけて対決し、勝利した。
- 観客動員数が惨憺たる興行後、「なんでプロレスの面白さが伝わらないんだろう。逆に言えば、お客さんは会場まで何を見に来てるんだろうって」、「久しぶりですね,こんなお葬式みたいな試合したの」といった発言が報道がされた。棚橋の目標のひとりである武藤敬司であれば観客数の少ない興行であっても、印象を残す試合が出来たはずであり、いかにすれば棚橋も盛り上げられるのだろうかと自問するコメントも出している。
- 上記の様に、武藤や藤波の名を多く出す。IWGP王座にめぐっては橋本真也の名前も出している。
- 普段は白を基調としたロングタイツを着用しているが、単発興行「レッスルランド」では、黒のショートタイツを着用する。興行中で流されるVTRは棚橋の股間を強調し、インタビュアーもそれに準じた激励をした。
- 鍛えられた見栄えする肉体と、割に整ったマスクで女性からの人気が非常に高いのだが、反面技の切れに問題が有ることが多く、女性人気へのひがみ?も影響するのか男性の観戦者と年季の入ったファンには猛烈に評判が悪い。(女性偏重人気という点でジュニアの金本と通じる部分が有る。技に関しては現状の決め技に批判が集中している。)
- ブロック・レスナーとのタイトルマッチに備え、中止が発表されるまで小さな話題を積み重ねていった。
- ローキックのトレーニング:下半身を狙うため山崎一夫から指示を受けた。この前に永田裕志がレスナーと対戦した際に、「下半身が弱い」と指摘した上で挑んだが敗北した前例がある。
- スタイル批判:レスナーのファイトスタイルを「人間というのは血が流れているものだから、レスナーの血の通わないプロレスに、自分の血の通うプロレスは負けないと」と評した。血流の有無が勝敗を分けることの根拠については述べなかった。
- 木こり殺法:棚橋の父親が定年退職後、林業に従事していることを明かし「具体的な技は無いが木こりの様なイメージで倒す」と勝利宣言した。
- ライオンマークフラッグ:レスナー戦に繋がるシリーズにおいて、新日本プロレスのシンボルマーク(ライオン)が印刷された旗に観客からのメッセージを書き込んでもらい、それを背負って入場する。
- プロレスの神様:レスナー戦が中止となった後、ファンに詫び「プロレスの神様がいるなら助けてほしい」と述べた。
この「プロレスの神様」はカール・ゴッチ(無我ワールド・プロレスリング顧問)とは無関係である。
[編集] 得意技
藤波辰爾の影響を受けた技が多い、これら以外にもクイック技を好んで使う。
- スリング・ブレイドと並ぶフィニッシュムーブ。スリング・ブレイドよりも使用回数は少ないがフィニッシュになる回数はおそらく一番だろう。
- ドラゴン・スリーパー
- この体制からファイナルカットに移行する場合がある。
- ドラゴン・ロケット(トペ・スイシーダ)
- 勢いがつきすぎて本部席につっこんだり、足がロープに引っかかったりなど失敗もたまにある。
- 電光石火
- ランニングしての首固め
- ブリッジの良さは天下一品で、金華山ジャーマンと呼ばれていた。
- ハイ・フライ・フロー(ダイビング・ボディプレス)
- 新技で2006年のG1から使用。
- フライング・フォーアーム
- 棚橋式のランニングエルボー
- スリング・ブレイド
- 現在のフィニッシュムーブ。旋回式のフライング・ネックブリーカー・ドロップ。相手の前方から飛びつき、スリーパーホールドの様に相手の頭を抱えてリングに叩き付ける技。
- フライング・スリング・ブレイド
- トップロープから相手に飛びついてのスリング・ブレイド。一度リングに足から着地した後に、再度その場で小さく飛び跳ねてから叩きつけることが特徴。
- 太陽ブロー
[編集] タイトル歴
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