松本整
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松本 整(まつもと ひとし 1959年5月20日 - )は、元競輪選手、現在はスポーツトレーナー、実業家。京都市出身。日本競輪学校第45期卒業。現役時は日本競輪選手会京都支部所属。師匠は木代隆治。初出走は1980年4月19日の門司競輪場で初勝利も同レース。血液型はA型。
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[編集] 競輪選手としての戦績
京都府立洛北高等学校在学時はラクビーを行っていたが、卒業時に日本競輪学校の適性試験を受験し合格する。デビュー後は順調に上位クラスで活躍していったが、トップクラスを目指すために自ら中野浩一の元に赴いて練習するなど、さらに実力を積み上げていった。
やがて1992年のオールスター競輪で決勝2位入線だったものの、1位入線した井上茂徳の失格という思わぬ形で初の特別競輪(現在のGI)優勝を手にした。これをきっかけとして一流選手の仲間入りを果たし、1996年から1997年にかけてはふるさとダービーにおいて出場4開催連続優勝という偉業を成し遂げている。
1990年代後半まで近畿では強力な先行選手がなかなか育たず、追込選手として同じ近畿で有力な先行選手とのラインを組めることが少なかった。このため、特に中部地区の強力先行選手(海田和裕、山田裕仁など)と組んで「中近ライン」なるものを生み出した。現在でも近畿・中部の選手が比較的連携することが多いのは、この松本の功績によるところが非常に大きい。ただ前述通り近畿でまともなラインが組めなかった時期には、止むを得ずイン突きなど「ラフプレー」に当たる行為を連発したこともあり、このためせっかく上位入線しても事故点で競走得点を減点されることが多く、何回か斡旋停止などの制裁を受けている。
それでも自費でスポーツジムを立ち上げて肉体の維持に全力を注ぎ、それまでの競輪の常識では下降線となる40歳を越えても第一線での活躍を続けたことから、いつしか「中年の星」とまで呼ばれるようになった。また、参加した開催ではその競輪場に必ず「おじさんにも夢とロマンを」などと書かれた横断幕が多数見られた。
年齢を重ねても常に近畿のトップスターとして君臨し、「近畿と言えば松本整」とまで言われる存在にまでなったものの、なかなか2つ目のGIタイトルを獲得することができなかったが、2002年7月に寛仁親王牌を43歳で優勝し、GI最高齢優勝記録の更新を果たして競輪ファンを大いに驚かせた。また、続く9月のオールスター競輪も連覇して記録を更新する快挙を達成する。
40歳を超えてなお競輪の第一線で活躍する凄さに情報ライブEZ!TVなどで特集が組まれた。この他、同年8月には順天堂大学スポーツ健康科学部に研究生として入学し、自身の体を研究テーマにしたことでも話題となった。
この年(2002年)を含めてKEIRINグランプリには5度出場しているが、いずれも成績は芳しくなく、1996年は十文字貴信を落車させたとして失格と判定され(これについても色々と物議を醸したが)、2002年は同郷の強力先行選手である村上義弘の後位という絶好のポジションを得ながら、ラインが組めなかった小橋正義に競り込まれ番手を奪われるという屈辱を味わった。
この頃から他の追込選手からの競り込みを受けることが多くなり、その応戦への裏返しとして2003年には失格を多発させ、これにより長期の斡旋停止や、大幅減点された影響で2004年7月から下位クラスのA級へ陥落が決まっただけでなく、日本競輪選手会(以下選手会)からもレースへの参加自粛要請が伝えられたため、松本が「二重制裁」と選手会に対し猛反発した。その後も2004年1月の競輪祭などに強行出場したが、選手会から除名(事実上の強制引退)の意向を伝えられたため、やむなく松本は選手会の処分に従うことになった。
その後2ヶ月間の参加自粛のち、直後に出場した2004年6月の高松宮記念杯競輪では優勝を果たし、自身3度目の最高齢記録更新を果たした。だが、その直後の優勝選手記者会見において現役引退を発表し、競輪界全体を驚かせた。記者会見中、この発表を聞いた多くの記者が驚愕の声を発し、日刊スポーツ(大阪版)では翌日の一面に見出しだけだが掲載される(詳細な記事は競輪面に掲載)など多方面で反響を呼んだ。
- 現役引退については、A級降格が決まった時点で決心していたが、ごく親しい人間以外は誰にも伝えなかった。中野浩一でさえ、高松宮記念杯競輪の開催直前に聞かされた程度であったという。また村上義弘など練習仲間でさえ引退を決意していたことを知らなかった。村上は後に「開催直前の(松本の)練習は鬼気迫るものがあった」と語っており、松本はいかにこのレースに賭けていたかが分かる。
この松本の行動自体には賛否両論があったものの、結果的にスター選手を守らなかった選手会や日本自転車振興会に対してはファンの批難が浴びせられる事になった。
[編集] 引退後・現在
後輩の指導にも力を注ぐ傍ら、順天堂大学に協力研究員として在籍している。現役中に設立したジムでは様々な分野のスポーツ選手を指導しており、2006年のトリノオリンピックにはシーズンを通して指導した越和宏に帯同し、スケルトンのコーチとして参加している。またフィギュアスケートの織田信成も松本の指導を受けている。
またジムの経営に加えて、NPO法人や自転車部品関係の会社も立ち上げるなど実業家としても活動しており、現在でも競輪界に影響を持つ存在となっている。
[編集] 主な獲得タイトルと記録
- 1992年 - オールスター競輪(静岡競輪場)
- 2002年 - 寛仁親王牌(前橋競輪場)、オールスター競輪(熊本競輪場)
- 2004年 - 高松宮記念杯競輪(大津びわこ競輪場)
- ふるさとダービー出場4開催連続優勝 - 1995年富山→和歌山→1996年富山→和歌山
- 特別競輪最高齢優勝 - 45歳0ヶ月(2004年高松宮記念杯競輪)
[編集] 競走スタイル
デビュー当時は先行・捲りが戦法であったが、20代後半から徐々に自在へと変えていき、晩年はマーク・追込の戦法を取っている。直線では抜群の切れを見せる追込選手であったが、追込選手の義務として先行選手の後位を守るマーク技術は苦手にしており、他の選手から攻め込まれた事も多く、これが引退への間接的な原因になった面もある。
それを避けるためにイン突き(ルールに則した内側追い抜き)や番手捲り(先行選手直後からの捲り)などの緊急的な戦法を取ることも、しばしば見受けられたが、この瞬時の判断の良さには定評があり「捌きの名手」としてファンに人気があった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- CLUB KONG - 経営するスポーツジム(公式HP)
- 特定非営利活動法人 日本運動能力研究所 - 理事長を務める