松崎哲久
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松崎 哲久(まつざき てつひさ、男性、昭和25年(1950年)4月14日 - )は、昭和・平成期における日本の政治家、小説家。元衆議院議員(1期)。
元三重県知事・衆議院議員の田中覚は義父、元内閣総理大臣の三木武夫は義理の伯父、昭和電工創業者の森矗昶は祖父にあたる。「湯川裕光」の筆名で歴史小説、ミュージカルの脚本を執筆している。
生年月日 | 昭和25年(1950年)4月14日 |
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出生地 | 東京都 |
出身校 | 東京大学法学部卒業 ハーバード大学大学院修了 |
学位・資格 | 修士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
- |
世襲の有無 | 無 岳父・田中覚(衆議院議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
埼玉10区 |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 民主党 |
党役職(現在) | 埼玉県総支部連合会常任幹事 |
会館部屋番号 | - |
ウェブサイト | 松崎哲久のページ |
目次 |
[編集] 概要
- 昭和25年(1950年)4月14日東京都に生まれる。東京大学法学部を卒業し、アメリカに渡り、ハーバード大学大学院を修了。M.A.の学位を取得する。在米中、エドウィン・ライシャワー、エズラ・ボーゲルの下でハーバード大学日本研究所研究員(Associate in Research)を務める。
- 昭和57年(1982年)自由民主党総合政策研究所の設立にともない主任研究員に就任する。自民党幹事長付、同総裁付を経て、昭和62年(1987年)社会工学研究所政治分析センター主幹に就任する。平成元年(1989年)現代政治分析センターを創設し、同センター代表に就任し、日米の比較政治論や自由民主党の研究、分析を著作、マスメディアを通じて精力的に行う。
- 平成4年(1992年)細川護煕の日本新党結成に参加する。政策部会長として、日本新党の政策を立案した。その後、組織委員長として細川に次ぐ党№2であったが、党事務局と対立したことが契機で細川と齟齬をきたしたといわれる。同年7月26日の参議院選挙に比例区で立候補する。日本新党は、この選挙で4人当選を果たすが、名簿5位に搭載されていた松崎は次点となり、落選する。その後、組織委員長を小池百合子と交代し、総務委員長に就任する。しかし、平成5年(1993年)日本新党を党員としての適格に著しく欠けるとして除名される。背景には、党事務局との確執の先鋭化や、松崎の第40回衆議院議員総選挙への立候補に関するトラブルがあったとされる。松崎は党を除名されたため、総選挙に細川、小池が立候補したことに伴い、名簿掲載6位の小島慶三、7位の山崎順子(円より子)が繰り上げ当選する。松崎はこれを不満とし、円より子の繰り上げ当選無効とする訴訟を起こした(日本新党繰上補充事件)。平成6年(1994年)東京高等裁判所では松崎の主張が認められるが、平成7年(1995年)5月25日、最高裁判所により円より子の当選を有効とする判決が確定した。
- 平成8年(1996年)民主党結成に参加する。同年10月第41回衆議院議員総選挙に小選挙区埼玉10区に民主党公認で立候補するが落選する。平成12年(2000年)再度立候補するが落選する。平成15年(2003年)第43回衆議院議員総選挙比例区北関東ブロックで復活当選する。ちなみに10年前の日本新党除名に伴って、松崎に代わって参議院議員に繰り上げ当選した円より子は当時民主党副代表。衆議院国土交通委員会委員、政治倫理・公選法改正特別委員会委員、民主党埼玉県連常任幹事を務める。
- 平成17年(2005年)の第44回衆議院議員総選挙で落選する。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『アメリカ政治を読む』
- 『近代百人一首』
- 『劇団四季と浅利慶太』
- 『日本新党とは何であったのか』
- 『日本型デモクラシーの逆説』
- 『名歌で読む日本の歴史』
- 『劇団四季と浅利慶太』
[編集] 共著
[編集] 「湯川裕光」名義
- 歴史小説
- 『瑤泉院 三百年目の忠臣蔵』(テレビ東京新春ワイド時代劇『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』の原作)
- 『安土幻想 信長謀殺』
- 『明朝滅亡』
- ミュージカル脚本
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 松崎哲久のページ(公式サイト)
- 民主党埼玉県総支部連合会