朝鮮出兵における五島勢
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朝鮮出兵における五島勢(ちょうせんしゅっぺいにおけるごとうぜい)では、豊臣秀吉の朝鮮出兵における、肥前国五島藩(福江藩、現長崎県五島列島)の動きについて述べる。
[編集] 朝鮮出兵下準備
天正十五年(1587年)六月、豊臣秀吉は九州を平定した。その際、宇久純玄(五島藩第二十代)は、1万5530石の本領を安著された。
天正十七年(1589年)、秀吉は奥州伊達正宗を降し、翌年北条氏直を小田原に囲み滅ぼし、徳川家康を関東に移封し天下統一をなした。
国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。まず、朝鮮に入貢を命じ、開かなければ討つ、と脅し対馬の宗義調に強引に折衝させ、同様の態度でルソンや高山国(台湾)にも使者を出した。
天正十九年(1591年)、秀吉は配下武将に出兵軍役を命じ、弟の内大臣秀次に関白を譲り太閤となり、肥前の名護屋に城を築きそこに入った。九月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった。宇久純玄はこの年、姓を五島に改名している。
小西行長と宗義調の子義智は、対朝鮮平和的計画進行を秀吉に献策し許されると話し合いで解決しようと朝鮮に渡った。秀吉はその間に加藤清正らの九州の諸将を壱岐と対馬に待機させ、文禄元年(1592年)三月十三日、朝鮮の回答を待たずに、一番隊小西行長、宗義智ら一万八千七百人を渡航せしめ朝鮮半島に上陸させた。続いて加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊というように九番隊まで総勢十五万八千人と九鬼嘉隆らの水軍九千二百人を組織した。肥前の名護屋には徳川家康、前田利家、上杉景勝、伊達政宗ら兵十余万の予備軍団を待機させた。五島領主の五島純玄は、一番隊小西行長に属し、軍役担当に従って兵七百を出陣させ、五島八郎兵衛盛長を城代留守役に命じた。
五島藩という一万五千石余りの小国にとって、この出兵は大きな損失であり、ほぼ総動員の状態であったため列島の労働力は 皆無となり生産力が著しく低下したであろうことは想像に難くない。
[編集] 文禄の役での五島勢
文禄元年(1592年)四月十二日、朝鮮に進撃した五島勢は十月三日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎭城を攻略して大いにこれを破った。翌日には慶尚道東菜城を落とし、十七日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして降伏した。秀吉侵攻軍はわずか十九日で朝鮮の首都漢城を落とした。ただ、首都漢城は焦土と化しており朝鮮側の徹底抗戦のかまえは明らかとなった。
朝鮮全羅水軍の李舜臣が各地で日本の水軍を撃破し、補給路が脅かされ兵糧が滞った。七月には朝鮮の救援要請に答えた遼東副総兵・祖承君が北京の命令を待たず援軍を発した。祖承君は朝鮮の義州から南下をはかり平壌を攻めるが小西行長が奮戦し退けた。しかし、大明の介入で戦局は一方的でなくなってしまった。
文禄二年(1593年)正月、大明は李如松を総兵官として四万三千の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者千六百で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、京城まで下がった。
京城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して京城に迫った。隆景は宇喜多秀家、立花統虎、吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った。この際、五島純玄も出陣していた。
しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、大明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入った。しかし、秀吉の提示した条件はとても受けいられそうなものではなかった。
このようななか、五島勢に一大事がおこった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、七月二十八日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉、青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安がとけないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように薦めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して際協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを薦めた。その条件で玄雅は第二十一代五島家当主になった。
北京から大明の使節がきた。慶長元年九月一日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分をみて激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかりこの場で誅殺しようとした。相国寺承兌の取り成しと行長自身の陳謝で命を取り留めた。
秀吉は再度出兵を命じた。
[編集] 慶長の役での五島勢
慶長元年九月、秀吉は再度朝鮮出兵の命をくだした。日本軍が築いた朝鮮の城塞を守っていた二万の守備軍を含め、総勢十四万一千五百人が朝鮮半島に再上陸した。五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島の攻略に参加し打ち破っている。
緒戦は有利にすすめたが、李舜臣が水軍を率いて現れると、各地で日本水軍は敗北。またしても形勢が逆転した。
慶長二年(1597年)十二月には、加藤清正、浅野幸長らが篭城していた蔚山城が大明の援将経理楊鎬の率いる数万の大軍に包囲された。五島玄雅は、得意の水軍を率いてこれを救援、明軍の背後を突き突撃した。これを見た加藤・浅野の篭城軍は打って出て、明軍を退けた。慶長三年一月一日のことだった。
秀吉は、一月十七日、寺沢志摩守を通じて玄雅に、「今度大明人蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方も安芸中納言 増田右衛門 因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに、小袖一服、道服一服を与えた。さらに八月、玄雅がいったん帰朝して家督相続の御礼のために大阪城に伺候したさい、秀吉は抜群の戦功を愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した。
まもなく秀吉は逝去し、朝鮮出兵も終息した。この戦役を通じて五島藩と島津藩は極めて親しく付き合い、島津勢がたびたび五島勢に加勢して戦ったという。