五島列島
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五島列島(ごとうれっとう)は長崎県西部の列島。南側の福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の五つの島を中心に、約140の島からなる。西海国立公園に指定されている静かで自然豊かな列島。特に、東シナ海に沈む夕日は美しく、今もなお多くの教会が存在し、キリシタンの香りが色濃く残る島々である。
長崎港からの距離は約100キロメートル。昭和初期には、全国あちこちから出稼ぎに来る船団の東シナ海先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、今なお海産物は全国屈指の名物である。
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[編集] 地理
五島列島は長崎県に属し、九州の最西端に浮かぶ島々である。
現在の長崎県には非常に多くの島があるが、その中で五島列島は特に多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。。島々は連なった山々が溺れ谷になって海に沈み高い部分だけが残った複雑な海岸線をもつ地形である。
「五島」と呼ばれてはいるが実際にはかなりの住民がいる大きな島だけでも7つないし8つあり、地図でみれば明らかに五つの島ではない。歴史の項に述べるように五が縁起のよい数字と考える中国の思想から「五島」と総称されるらしい。 (五島市の記述も参照のこと)
[編集] 歴史
- 五島列島の歴史
五島列島に人が住み着いたのは意外に早く、一部には旧石器時代にすでに自然に人が住みついていたようだ。島の中では旧石器時代以降、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は朝鮮半島などにも近く、また最近でもベトナムからの難民を乗せた船が何度も五島に流れ着くなどしており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着くことも多いと思われる。 海の中に浮かぶ島々という地理的条件は文明の発達には阻害要因かもしれないが、時代をさかのぼって自然に生かされる時代には生活に向いた土地であったといえるのだろう。五島では島々が密集していながら地続きではない。五島列島中で最大の面積をもつ福江島の中心部以外では、全体としてはかなり大きいといえる五島列島のどこにいても常に海が見える程である。このような自然環境は漁労民には大きな利点であったであろう。
遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったようだが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。 ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いという地理的な利点もあって、中央の文化と長く隔絶した状況ではなかったようだ。
古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残であるという。 ちなみに、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は五島の南に離れて浮かんでいる男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市に入るが、この島もまた女島灯台がおかれるなど近年に至るまで地理的な重要性のあった島であった。 これらの事からも、古代において五島列島やその周辺の島々が中央にも特によく知られていたことが分かる。
その後中世に至るまで五島列島の土着の民衆に大きな変化はなかったのではないかと推測されるが、政治的勢力としては中世には松浦党のがその拠りどころにし、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が活動の一拠点とする。 「五島列島」とは学問的な呼び名であり、一般に会話の中ではあまり使われない。地元や九州本土では単に「五島」と呼ぶ。 倭寇の王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島のことである。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五島」と呼ばれるようになり、それが我が国にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。
その後、五島列島北端の宇久島(うくしま)から宇久氏が五島列島最大の福江島に移り、五島氏を名乗って五島藩(福江藩)となった。 五島藩は五島列島全域を領地として明治まで続いた。 福江島では五島藩の分家として富江藩があった。
[編集] 観光
五島は本土と離れているため大きな工場などがない。そのことも幸いしてほとんど手付かずの自然が残っている。素朴な風土やキリシタンの歴史を物語る多くの古いカトリック教会など、五島の観光は他では味わいがたい風情がある。海産物をはじめとして、最近全国的に一躍有名になった五島うどんなどみやげ物も多い。
五島観光はやはり海に関連した場所が人気があり、特に夏場は観光客が多い。 日本最西端とも表現可能な大瀬崎灯台は雄大な景観で特に有名である。また、高浜海水浴場など美しい砂浜が残されているのも五島の魅力となっており、特に夏場は九州本土や東京・関西方面からの観光客などで賑わう。 夏休みの間は無人島での地引網体験の実施や、海底が見える大きな観光用グラスボートの運行などもあって、事前に計画しておけば手ぶらで五島へ渡っても家族で楽しむことができる。
五島列島はかなり大きな島々であり、しかも公共交通機関は便利とはいえない。鉄道はなく、バスも本数が少ない。五島列島を観光するならば一度に五島全部を見ようとせず、観光する島を絞って、事前にレンタカーや貸切タクシーの予約をしておくのがよいだろう。 早めの計画や直前の確認は台風を避けるためにも有効である。
五島列島までのアクセスは、福岡空港や長崎空港から五島福江空港に1日3往復程度の飛行機便がある他、長崎市・福岡市からのフェリー、長崎市からの高速艇(ジェットフォイル)がある。夏場は関西空港から五島福江空港までの直行便があり関西方面からの観光には非常に便利である。
[編集] 産業
五島藩の城下町であった福江では以前から商工業が見られたものの、元来五島では大多数が半農半漁の生活であった。現在ではこれに加えて観光も五島の主要産業となっている。
五島列島の周囲は我が国屈指の漁場であり、五島の海産物は古くからよく知られている。現代においても五島の水産物は実に味がよく、例えば五島の鮑(アワビ)は現代でも中国で最高級品とされるなど有名である。 鮑に限らず、同じ海産物であっても都会では味わえないうまさがあるというファンも多い。近年ではインターネットによる通信販売なども盛んになっているため都会でも手軽に味わえるようになった。
五島列島では複雑な海岸線を生かした養殖漁業も盛んに行われている。また、上五島の中通島ではオイルショック後に国策として石油備蓄基地が建設されている。かなりの面積や人口をもつとはいえ本土から離れた五島で大きな国の施設はめずらしく、異色の存在となっている。
豊富な水産資源に比べると、五島列島はあまり土地には恵まれておらず、山がちで平野が少ない。火山灰質の土地も必ずしも耕作に向いていない。 このためか近世の甘藷(かんしょ、さつまいも)伝来以降、五島には甘藷が根付いており、甘藷を薄く切って天日で干した「かんころ」と呼ばれる干し芋や、これを餅にまぜてついた「かんころもち」という緑色の餅菓子は五島のシンボルである。
もちろん、かなりの面積をもつ五島の島々では稲作も盛んである。夏場を過ぎると台風の通り道となるため、五島では特に早稲の栽培が盛んで、多くの田では8月のお盆休みぐらいには稲刈りを終えてしまう。
ごく最近、五島列島近海での石油埋蔵の可能性が高いとの政府発表があった。詳細な調査はまだこれからだが、将来技術的・経済的に採掘可能となれば、五島列島近海に海上油田ができ、五島列島にも石油関連産業の施設が作られる可能性もあるという期待もでている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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