朝日新聞の中国報道問題
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朝日新聞の中国報道問題とは、朝日新聞社発行の朝日新聞に対して、指摘・批判されている議題である。
情報統制の厳しかった、1960年代から現在に至るまでの中国に関する記事が対象となっている。中国報道に対する批判は、朝日新聞OBでジャーナリストの稲垣武の著作が有名である。
目次 |
[編集] 中国の報道規制と朝日新聞
1964年頃より日中間で新聞記者交流が行われ各新聞社が北京支局を開設していたが、1967年頃から1974年頃まで中国側による再入国拒否などで、数ヶ月ほど朝日新聞社だけだった事もあった。
言論の自由、取材の自由がほとんどない当時の中国に、朝日新聞だけが特派員をおいていることに、内外から批判が集まったという。この点を、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は、こう答えており、中国政府の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。
- 「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)
- さらに、「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」(同『新聞研究』より)
当時の朝日新聞には親中国的な報道が存在したとの見方もある。広岡知男社長は自ら顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られるエドガー・スノーである。さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして中国政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。
しかし、文化大革命初期の混乱を全く報じていなかったわけではない。外電を中心に、紅衛兵による武闘を伝える記事を掲載しているのである。勿論、文革に批判的な報道をほとんど外電を通してしか報じていないというのでは到底公正な報道を行なっているとは言えない。また、「文革礼賛」は朝日新聞だけの特権ではなく、濃淡の差はあれ、他の新聞や雑誌にも現れていたが、朝日新聞が突出して、「文革礼賛」を行っていたという印象を持たれたことも確かである。稲垣の著作は、この点について留意しているが、「朝日新聞の文革礼賛」だけが突出してしまっていると考えるものもある。
[編集] 林彪事件報道について
朝日新聞批判では常連として登場する朝日新聞の林彪事件報道も、稲垣武の著作を経由して広がったと考えられるが、正確に言うならば朝日新聞自体が一方的に林彪失脚を否定していたわけではない。
ここでは主に、秋岡家栄・北京特派員の「誤報」にスポットが当てられ、それが朝日新聞批判の突破口になっている。
1971年10月1日の国慶節パレードが当然中止され、人民日報にも、林彪の名が現れなくなったので、毛沢東重病説や、何か重大な政変があったのではないか、との観測が世界中に広まった。この時、秋岡記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と報じた。
10月1日、モンゴル領内で国籍不明機が墜落したというモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じた。朝日新聞は、その飛行機には中国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっていることを伝えている(モスクワ特派員電)。それと並行して林彪失脚の噂が広まる。10月は主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがあるが、11月頃からは失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。
しかし朝日新聞には秋岡記者の書いた、毛沢東と林彪が並ぶ大きな写真が税関に掲げられていたことを根拠に林彪失脚に疑問を投げかける記事(71年11月25日「流説とは食違い」)や、「しかし、これだけの事実をもって党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」という記事(71年12月4日「なおナゾ解けぬ中国政変説」)が掲載される。稲垣の著作に限らず、多くの朝日新聞批判本がこの点を指摘し、秋岡記者を名指しで批判している。なお、秋岡記者は、11月中旬に、ある筋から事件の実際を教えられたが、「絶対に口外しない」という約束をさせられたため、いっさい記事を書こうともせず、本社にすらこの情報を送らなかったとも指摘されている。
確かに秋岡記者は林彪失脚に疑問を投げかける記事を継続して配信していたが、同時に朝日新聞は通信社などから配信された林彪失脚を匂わせる記事を度々掲載していたのも事実である。例えば、「林氏ら軍人退場 モスクワ放送 中国“政変”で解説」(11月17日 ラヂオプレス)や、「林副主席の名前は見えず アルバニアに三首脳祝電」(11月28日 ラジオプレス)がある。中国関連の記事は、林彪失脚に懐疑的な記事ばかりでなかったのであり、この点は朝日新聞批判本が指摘していないところであるが、外電の林彪失脚を示唆する記事は目立たぬように小さく報じ、自社の特派員の書いた林彪失脚に疑問を投げかける記事のみ大きく取り上げたことにより、朝日新聞は林彪失脚に懐疑的であったという印象を与えたことは確かである。
年が明けた1月3日、「林氏の肖像画消える」という秋岡記者の書いた記事が朝日新聞に掲載される(それが何を意味するかは触れず)。
さらに72年2月10日付の一面トップには「林氏 失脚後も健在 仏議員団に中国高官談」と題されたAFP電が掲載されている。「この記事は林彪健在を大きくアピールして読者をミスリードしているように見える」と指摘する声もある。
これ以降、朝日新聞からは林彪の死亡はともかく、失脚を訝しがる記事は消え、2月23日には「中ソ改善を図り失脚 林彪 訪中の米記者報道」(72年2月22日 時事通信)という記事が掲載される。一方で他紙を見てみると、毎日新聞は「林彪は生きている」、読売新聞は「林彪の失脚を確認」と、扱いは朝日新聞ほど大きくはないものの前述した2月10日のAFP電を報じている。そして72年7月28日、他社が林彪の死亡を報じた後で、秋岡記者が配信した林彪死亡記事がようやく掲載される。
これは広岡知男朝日新聞社社長が中国政府の意向通りの記事を書くことを公言していることから、朝日新聞社の方針に沿ったものであると考えることができる。しかし、それはあくまで秋岡記者の問題であるから、朝日新聞批判につながらないという見方も可能である。
また、多くの朝日新聞批判本には朝日新聞が「林彪失脚を否定した」や「誤報を伝えた」としているが、正確には林彪失脚に懐疑的な見解や伝聞も記事にしていたということである。したがって、断定的な叙述でない以上、「否定」とか「誤報」とすることは難しい。
[編集] 結論
稲垣も指摘するように、通信社電よりも秋岡記者の記事にウェイトを置くなど、当時の朝日新聞の編集部に偏向があったのは事実であり、それ以上に、自社記者には中国政府の意向に沿った記事しか書かせず、批判的な記事は、言い訳のように外電を介してのみ小さく報道するという姿勢が報道機関として批判されるのは当然である。
同時に、他紙に比較して読者をミスリードする誤った記事を多数掲載したとは言え、そもそも「歴史の後知恵」でもって林彪失脚(或いは死亡)を否定する記事を載せたと、一方的に責め立てることができるのかという疑問も生じる。当時の中国は現在よりもはるかに情報統制が厳しく、情報も錯綜していたことを考えると、林彪の失脚や死亡を簡単に断言することも逆にできない。
[編集] その後
「現在でも中国に迎合する記事が多く中国を批判する記事ははほとんどない」とする批判も多く見られる。 一方で全く批判記事が無いわけではなく、2005年連載のルポルタージュ「カラシニコフ」では、世界の紛争地に売られるAK47の多くが中国製であることを書いている。「天声人語」が地雷廃絶をテーマにした時(1995年7月8日、2004年7月25日)には、世界の地雷輸出国として米、中、ロシアと記した。2004年7月22日の「天声人語」では、自国内に地雷が埋まっていない地雷製造国として「米、英、仏、そして日本だ」とあり、中国についての記述はないが、これは単純に、中国国内には少数ながらまだ地雷が埋まっているとされているため、「自国内に地雷がない」という条件に合致しなかっただけと思われる(ロシアも同様)。
人脈的には、上記の秋岡家栄記者が後に「人民日報」海外版の日本代理人に就任、後に北京特派員、北京支局長になった横堀克己氏が中国共産党傘下の対日政治宣伝雑誌『人民中国』の編集顧問に就任したりする中国あるいは中国共産党との繋がりを批判する向きもある。ただし、特定の国に長期赴任した記者が現地の機関に再雇用される例は、朝日と中国との関係に限ったことではない。
また、朝日新聞と上記の「人民日報」は提携関係にあり、朝日新聞のWebサイトは人民日報の記事を、特別コーナーにて常時掲載している(2006年2月現在)。新華社の日本支局も朝日新聞東京本社の社屋内にある。
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