朝倉貞景 (9代当主)
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時代 | 室町時代~戦国時代 | |||
生誕 | 文明5年2月5日(1473年3月3日) | |||
死没 | 永正9年3月25日(1512年4月11日) | |||
別名 | 孫次郎、弾正左衛門尉 | |||
戒名 | 長陽院殿天沢宗清大居士 | |||
氏族 | 朝倉氏 | |||
父母 | 朝倉氏景、尾張国織田孫左衛門の娘 | |||
妻 | 祥山禎公大姉(美濃国斎藤利国娘) | |||
子 | 孝景(10代)、景高、景郡、景紀、 道郷、景延、大成明玉、朝倉景職室(北殿)、 南陽尼寺良玉侍者、土岐頼武室、鞍谷氏室 |
朝倉 貞景(あさくら さだかげ、文明5年2月5日(1473年3月3日) - 永正9年3月25日(1512年4月11日))は、越前の戦国大名。朝倉氏第9代当主。第8代当主・朝倉氏景の嫡男。孫次郎、弾正左衛門尉。妻は美濃国守護代斎藤利国の娘。子は嫡男孝景を筆頭に七男四女。
[編集] 生涯
家督を継いだばかりの長享元年(1487年)、将軍・足利義尚の命を受けて六角高頼攻めに出陣するが、貞景率いる本隊は敦賀に留まり、敦賀郡司の朝倉景冬のみ先陣として近江国坂本に着陣した。これは既に坂本に着陣していた斯波義寛が旧被官である朝倉氏と同陣するのに屈辱を感じ、義尚に対し斯波氏の越前国守護職復旧について訴えたためである。この時は朝倉氏側の言い分が通り、朝倉氏は将軍の直臣であるという裁定が下され、朝倉氏の越前支配が認められた。
延徳3年(1491年)、新将軍足利義材は再び六角高頼を攻めるため、近江へ出陣、斯波義寛も参陣したが、貞景は出陣せず事態を観望した。義寛は再度将軍に対し訴えを起こし、一時は朝倉征伐の御内書が出され、将軍の越前遠征まで噂された。結局、朝倉討伐は立ち消えとなったが、朝倉氏の保有する兵力(精鋭1万)がものをいったと思われる。同年、貞景は結婚している。
明応2年(1493年)の明応の政変では細川政元に協力し、朝倉軍は将軍義材を捕らえている。翌年10月、加賀国より越前に攻め込んだ甲斐氏の軍勢と大野郡や坂井郡で交戦、勝利している。明応4年(1494年)に美濃で勃発した舟田合戦には貞景自ら近江国柳ヶ瀬まで出陣、翌年の決戦にも朝倉軍を派遣、大勝している。
明応7年(1498年)、前将軍義材(義尹)が越中国から一乗谷に入り上洛の機会を窺う(越前公方と呼ばれた)。貞景はこれを歓待するが上洛支援は断り、義尹は翌年、朝倉軍の援助の無いまま上洛、六角氏の軍勢に敗北し周防の大内氏を頼る。だが、これによって細川政元やこれと同盟関係にあった加賀の本願寺門徒と対立するようになる。文亀3年(1503年)、一族内部で謀叛が起こるが、朝倉宗滴の尽力のもと、朝倉景豊を滅ぼす。翌年、加賀より攻め込んで来た朝倉元景を返り討ちし、家督を確実なものとした。永正3年(1506年)には越前に侵攻した加賀・越中・能登の一向一揆勢と戦い、これを駆逐するなどして、内政・軍事においての朝倉氏の戦国大名化、越前領国化を成し遂げた。
しかし永正9年(1512年)3月25日、鷹狩りの途中、突如として急死してしまった。享年40。法号は天沢宗清。後を子の朝倉孝景(宗淳)が継いだ。