朝倉景総
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朝倉 景総(あさくら かげふさ ? - 永正2年4月4日(1505年5月7日))は戦国時代初期の武将。朝倉氏家臣。孫五郎。弾正忠。法名大憧宗建。
朝倉孝景の四男。庶腹の出であったため、兄でありながら常に正妻(桂室永昌)の子である弟の朝倉教景(孝景五男、法名以千宗勝)の下座に置かれた。これを恨み、文明16年(1484年)7月12日、相撲場で教景を殺害した。教景を養子としていた朝倉光玖は激怒し、景総は南条郡の宅良慈眼寺へ逃げ剃髪して許しを請うたという。
その後、光玖の怒りが解けたのか、一乗谷に出仕するようになり、延徳3年(1491年)の管領細川政元の越後下向時の見送り役や、明応5年(1496年)の美濃舟田合戦への派遣軍の大将役などを務めている。また、娘を敦賀郡司家の朝倉景豊に嫁がせている。
しかし、桂室永昌との関係は修復されず、やがて越前を出奔。その後、京に出て細川政元に仕え、名乗りも朝倉弾正忠元景に替える。
文亀3年(1503年)には朝倉景豊・朝倉宗滴らと共謀し、主家である朝倉貞景に対する攻撃の計画を企てるが、宗滴の密告で計画が漏洩。景豊は貞景に本拠の敦賀を攻められ自刃。近江国から出兵していた景総はこの報を聞き退却。その後、美濃・飛騨を経て加賀国に入った。
加賀で反朝倉の兵を募った景総は、翌永正元年(1504年)8月、越前国坪江に出陣し、貞景に決戦を挑むが敗れ能登国に逃亡。
永正2年(1505年)4月4日、能登春木の斎藤館で病死した。余六、地蔵院という二人の男児がいたようである。