朝倉教景
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朝倉 教景(あさくら のりかげ)
「朝倉教景」は、越前朝倉氏における重要な実名(諱)であり、朝倉氏のうち、少なくとも5名が「教景」と名乗っている(その由来は、本項を参照)。
- 室町時代の武将で朝倉氏5代当主。本項で解説。
- 同じく室町時代の武将で朝倉氏6代当主朝倉家景が一時的に名乗った名前。朝倉家景の項目で解説。
- 同じく室町時代の武将で朝倉氏7代当主朝倉孝景(英林孝景)が一時的に名乗った名前。朝倉孝景の項目で解説。
- 戦国時代の朝倉孝景(英林孝景)五男で兄景総に殺された小太郎教景(以千宗勝)。
- 戦国時代の朝倉孝景(英林孝景)末子(八男)で「宗滴」(そうてき)の号で著名な戦国武将。朝倉宗滴の項目で解説。
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時代 | 室町時代 | |||
生誕 | 康暦2年(1380年) | |||
死没 | 寛正4年7月19日(1463年9月2日) | |||
改名 | 又太郎(幼名)…教景 | |||
別名 | 孫右衛門尉、美作守 | |||
戒名 | 心月宗覚 | |||
墓所 | 心月寺 | |||
氏族 | 朝倉氏 | |||
父母 | 朝倉貞景(第4代) | |||
兄弟 | 教景、頼景外1名 | |||
子 | 家景、将景 |
朝倉 教景(あさくら のりかげ)は室町時代中期の武将である。
幼名を又太郎と言うが、『朝倉始末記』では小太郎とする。通称孫右衛門尉、美作守。法名は心月宗覚。朝倉氏5代目当主。子供は、朝倉家景と朝倉将景(別称鳥羽豊後守)のほか、僧侶になった2男と1女がいる。
教景は、斯波氏被官の立場にありながら、室町幕府の命により、たびたび関東に出兵していた。関東公方である足利持氏が永享の乱を引き起こすと、永享10年(1438年)8月、駿河守護今川範忠・甲斐守護武田信重・信濃守護小笠原政康らとともに出兵し、この乱を収めている。さらに、結城氏朝・結城持朝が、持氏の遺児春王丸・安王丸を擁して、いわゆる結城合戦を引き起こすと、再び関東に出兵した。
嘉吉元年、結城合戦が収まると、教景は、その功により、時の六代将軍足利義教から「教」の偏諱を賜り、「教景」と名乗るようになったという(『朝倉始末記』)。また、『朝倉家記』によれば、この時一緒に「美作守」を拝したとされる(「将軍御感悦有て御諱字を被下、拝美作守依教景と名乗る」)。
早くして亡くなった嫡子下野守家景に代わり、嫡孫朝倉孝景(英林孝景)を補佐した。寛正4年(1463年)死去、享年84。
菩提寺である心月寺(福井県福井市)は、英林孝景による創建である。