智積院
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智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥(げんゆう)である。「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)や成田不動として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺は、智積院の末寺である。
現在の管長は総本山智積院、中興第68世化主宮坂宥勝。
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[編集] 起源と歴史
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
智積院は、もともと紀州(現在の和歌山県岩出市)根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭(たっちゅう、山内寺院)であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥(尭性/ぎょうしょう、1529-1605)は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。
祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失してしまった。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。
[編集] 伽藍
東大路通りと七条通りのT字路に面して総門(東福門院の旧殿の門を移築したもの)が建ち、その先には講堂(平成7年、1995年、300年ぶりに再建)、大書院、宸殿などが建つ。大書院は桃山城の遺構といわれる。大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。
境内奥には金堂(本尊金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来)、明王殿(大雲院本堂を移築したもの、本尊不動明王)、大師堂(1789年築、空海を祀る)、密厳堂(1667年築、新義真言宗の祖・覚鑁を祀る)などが建つ。
他に宝物館(国宝障壁画を収蔵)、智積院会館(宿泊施設)などがある。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。25面の内訳は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
- 松に草花図 6面
- 桜楓図11面
- 松に梅図 4面
- 松に黄蜀葵及び菊図 4面
- 附 違棚貼付、袋棚小襖等 26面
- 松に草花図屏風 屏風仕立てになっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。
- 金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
[編集] 重要文化財
- 童子経曼荼羅図
- 孔雀明王像(絵画)
- 阿弥陀浄土図
- 滝図(絹本墨画)
- 松に梅図
- 増壱阿含経 巻第廿九
[編集] 名勝
- 智積院庭園
[編集] その他
- 指定文化財ではないが宸殿には堂本印象が描いた襖絵が数点ある。