日亨
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日亨(1867年2月24日 - 1957年11月23日)は、大石寺第59世法主。堀姓。道号は慈琳。僧侶、宗教学者。「にちこう」と読むので発音から日興上人と間違えやすいため苗字をとって「堀上人」、「堀猊下」と呼ばれることも多い。また、伊豆の畠毛で隠居していたため、「畠毛の猊下」とも呼ばれる。
[編集] 略歴
- 1867年(慶応3年)2月24日、九州久留米藩士の家に生まれ、6歳の時から祖父に四書や軍記物を習い13歳で小学校の教師になった。
- 1885年(明治18年)に日蓮正宗(当時は日蓮宗富士派)に入信。
- 1887年(明治20年)7月、20歳で霑妙寺の当時の住職の妙寿(尼僧)を師として得度した。得度してすぐに隠尊だった52世日霑に師僧変更し、宗門内外の史書の研究を始めた。
- 1893年(明治26年)、大石寺浄蓮坊勤務、その後、常在寺(東京都豊島区池袋)、常泉寺(東京都墨田区向島)の住職を歴任。
- 1905年(明治38年)、能化。
- 1913年(大正2年)宗会議長に就任。宗門古文書取調べ、史籍編纂委員を歴任し宗門古文書の調査研究に全力をあげ全国にわたって調査研究に回った。
- 1925年(大正14年)12月、大石寺第59世として登座。
- 1927年(昭和2年)宗学研鑚のために、60世日開に法を付嘱した。隠尊の身となる。
- 1929年(昭和4年)宗学全集の編纂にあたり、原本の書写をはじめとして「日寛上人全伝」、「南条時光全伝」などを著しす。
- 1937年(昭和12年)「身延離山史」を刊行させた。
- 1933年(昭和8年)頃から宗学全集の校訂に没頭。
- 1938年(昭和13年)富士宗学全集134巻を完成させ、その後、再び猊座に就くことなく隠居した。
- 1952年(昭和27年)宗旨建立700年記念の大法要を64世日昇と共に執行。
- 1957年(昭和32年)11月23日、90歳で遷化(死去)。
葬儀では65世日淳が導師を務めた。
日亨は、あまり知られていないが激烈な国立戒壇論者とする向きもある。国立戒壇とは田中智學が唱えた概念で、国主を「天皇」と限定し、国家事業として戒壇を建立するべきであるとする考え方である。明治から昭和初期の当時としては、国立戒壇論は広く支持されていたが、第二次大戦後、国立の意義が変わったため、現在の日蓮正宗では日亨を国立戒壇論者とは捉えていない。堀上人が使用した「国立戒壇」という用語は、必ずしも「国主=天皇」を意味していないという。
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