平重衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平重衡(たいら の しげひら、保元2年(1157年) - 文治元年6月23日(1185年7月21日))は、平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。妻は藤原邦綱の娘輔子。兄には平重盛、平宗盛、平知盛がいる。官途は尾張守、左近衛権中将となった。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称される。
[編集] 生涯
治承4年(1180年)12月、父・清盛の命により、反平家の拠点の南都東大寺・興福寺を焼き討ちする。その際に重衡軍の放った火が延焼し東大寺大仏が焼け落ちたため、激しい世論の非難を浴びることとなった。治承5年(1181年)3月には尾張国墨俣川で源行家軍を破り、その功により従三位に叙せられる。
寿永二年(1183年)平家都落ちの後も、備中国水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同室山の合戦で再び行家をそれぞれ撃破するなど、衰亡する平家方勢力の中心武将として活躍した。しかし翌1184年の一ノ谷の戦いで源範頼・義経軍に惨敗。自害しようとしたところを取り押さえられて捕虜となる。鎌倉に送られた後は源頼朝の厚遇を受けるが、大仏焼き討ちを深く恨む南都勢力による再三の引渡し要求によって、翌1185年に南都に送られる。程なく木津川畔にて処刑され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。京都府相楽郡木津町宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1162年(応保2)12月23日、従五位下に叙位。
- 1163年(応保3)1月24日、尾張守に任官。
- 1166年(仁安元)11月18日、従五位上に昇叙。尾張守如元。 12月30日、左馬頭に転任。
- 1168年(仁安3)1月6日、正五位下に昇叙。左馬頭如元。 8月4日、従四位下に昇叙。左馬頭如元。
- 1171年(嘉応3)1月6日、従四位上に昇叙。左馬頭如元。
- 1172年(承安2)2月10日、中宮亮兼任。 2月17日、正四位下に昇叙。左馬頭・中宮亮如元。
- 1178年(治承2)12月15日、春宮亮兼任。中宮亮去る。
- 1179年(治承3)1月19日、左近衛権中将兼任。左馬頭去る。
- 1180年(治承4)1月28日、蔵人頭。左近衛権中将・春宮亮如元。 2月21日、春宮亮止む。 5月26日、従三位に昇叙。左近衛権中将如元。
- 1182年(養和2)3月8日、但馬権守兼任
- 1183年(寿永2)1月7日、正三位に昇叙。左近衛権中将・但馬権守如元。 8月6日、解官。