平重盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 平安時代末期 | |||
生誕 | 保延4年(1138年) | |||
死没 | 治承3年閏7月29日(1179年9月2日) | |||
改名 | 重盛、浄蓮 | |||
別名 | 小松内大臣 | |||
官位 | 倉人、従五位下、中務少輔、従五位上、 中務権大輔、正五位下、左衛門佐、遠江守、 伊予守、従四位下、左馬頭、従四位上、 右兵衛督、従三位、参議、正三位、 権中納言、従二位、権大納言、正二位、 大納言、内大臣 |
|||
氏族 | 平氏 | |||
父母 | 平清盛、高階基章娘 | |||
兄弟 | 重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、徳子 盛子、寛子、知度、清房 |
|||
妻 | 藤原親盛娘、藤原家成娘 | |||
子 | 維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房 宗実 |
平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将、公卿。
平清盛の嫡男。保元・平治の乱では父に従い活躍。官途は左近衛大将、正二位内大臣となる。小松殿ないし小松内大臣と称された。弟には平宗盛、平知盛、平重衡らがいる。 子は平維盛、平資盛らがいる。
六波羅小松邸に住んでいたことから小松内大臣とも、その邸宅に48の灯篭を建てていたことから灯篭大臣とも呼ばれた。
鹿ケ谷事件の際には清盛の後白河法皇幽閉を身をもって制止するなど、清盛を諌めることができる数少ない人物だった。武勇に優れていたうえ温厚、博学で冷静沈着な人格者だったとされ(ただし、一度だけ藤原(松殿)基房と大乱闘を起こした事がある)、一門の若き頭梁として期待されながらも父に先立ち病没した。異母弟の平宗盛らによる毒殺の説もある。
[編集] 年譜(官歴)
- 保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。
- 嫡男ではあったが宗盛や徳子と母が異なる上、後に藤原成親の妹を妻としたことなどから一門のなかでは孤立気味であった。
- 久安6年(1150年)12月30日、蔵人に補任。
- 久安7年(1151年)元日、従五位下に叙位。
- 久寿2年(1155年)7月22日、中務少輔に補任。
- 保元元年(1156年)7月、保元の乱に参加。
- 保元2年(1157年)1月24日、保元の乱での功績により従五位上に昇叙。
- 同年9月19日、中務権大輔に転任。
- 同年10月22日、正五位下に昇叙。
- 同月27日、左衛門佐に遷任。
- 保元3年(1158年)8月10日、遠江守を兼任。
- 平治元年(1159年)12月、平治の乱に参加。
- 同月27日、平治の乱での功績により伊予守を兼任。遠江守任替。左衛門佐も兼任。
- 平治2年(1160年)1月6日、従四位下に昇叙。
- 永暦元年(1160年)1月27日、左馬頭を兼任。
- 同年10月11日、従四位上に昇叙。
- 同年11月30日、内蔵頭を兼任。左衛門佐・伊予守両官を止む。
- 応保2年(1162年)1月5日、正四位下に昇叙。
- 同月27日、内蔵頭を辞任。
- 同年10月28日、右兵衛督に転任。
- 長寛元年(1163年)1月5日、従三位に昇叙。
- 長寛2年(1164年)2月17日、正三位に昇叙。
- 長寛3年(1165年)5月9日、参議に補任。
- 永万2年(1166年)1月12日、近江権守を兼任。
- 同年4月6日、左兵衛督を兼任。
- 同年7月15日、権中納言に転任し、右衛門督を兼任。
- 同年12月2日、春宮大夫も兼任。
- 仁安2年(1167年)1月28日、従二位に昇叙。
- 同年2月11日、権大納言に転任。春宮大夫を兼任。
- 仁安3年(1168年)2月19日、春宮大夫を辞任。
- 同年12月13日、権大納言辞任。
- 仁安4年(1169年)1月5日、正二位に昇叙。
- 嘉応2年(1170年)4月21日、権大納言に還任。
- 同年7月3日、摂政藤原基房に対し子の平資盛が下馬の礼とをとらなかったため乱闘となる(殿下乗合事件)。
- 同年10月21日、摂政基房が武士に襲われる。
- 殿下乗合事件の報復であった。『平家物語』では重盛が制止するのも聞かず清盛が報復したことになっているが、実際は重盛が襲わせたらしい。
- 同年12月13日、権大納言を辞任。
- 嘉応3年(1171年)12月8日、権大納言に還任。
- 承安4年(1174年)7月8日、右近衛大将を兼任。
- 承安5年(1175年)11月28日、大納言に転任。右近衛大将も兼任。
- 安元3年(1177年)1月24日、左近衛大将を兼任。右近衛大将任替。
- 同年3月5日、内大臣に転任。左近衛大将も兼任。
- 同年5月29日、多田蔵人行綱が藤原成親らを中心とする平氏打倒の陰謀を密告。
- 同年6月1日、藤原成親・成経父子、西光が西八条亭に禁固され、西光は即日斬首される(鹿ケ谷の陰謀)。
- 同年6月5日、左近衛大将を辞任。
- 治承2年(1178年)2月8日、内大臣を辞任。
- 同年6月、内大臣に還任。
- 治承3年(1179年)3月、熊野に参詣した際、病に倒れる。
- 同月11日に内大臣を辞任。
- 同年5月25日、出家。法名は浄蓮。
- 同年7月29日、病没。享年42。