平群氏
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平群氏(へぐりし)は、武内宿禰を祖とし大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代豪族のひとつ。
『記紀』によると、履中天皇の御世に平群木菟が国政に携わるようになった。その後、雄略天皇の御世になると木菟の子である平群真鳥が葛城氏没落の後に、「大臣」に就任して国政を執るようになる。しかし、武烈天皇の御世に天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、武烈天皇は大伴金村に命じて、平群真鳥とその子、平群鮪を暗殺(498年11月11日)。平群氏はこの後、衰退。用明天皇2年(587年)の物部守屋討伐で将として平群臣神手の名が見える。天武天皇13年(684年)10月1日、「八色の姓」により、「朝臣」姓を下賜される。後に平群広成などの官人がでるが過去の栄光は取り戻すことはできなかった。
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[編集] 平群真鳥(へぐり・の・まとり)
平群真鳥は雄略天皇の時代に大臣に登用された有能な人物であった。雄略天皇後、清寧天皇・顕宗天皇の歴代の治世でも重鎮として活躍した。仁賢天皇の治世では並ぶものなき権勢を誇ったが、仁賢天皇の皇太子で後の武烈天皇の策謀によって滅ぼされた。
[編集] 平群鮪(へぐり・の・しび)
平群真鳥の子。美男であり、慈愛のある有能な人物であった。物部麁鹿火の娘である影媛と恋仲であったが、仁賢天皇の皇太子で後の武烈天皇も平群氏の台頭に危機感を抱き物部氏と連携すべく影媛を妻に迎えようとしたが、鮪と恋仲と知り、恥をかかされたと思った武烈天皇は大伴金村に命じ、鮪を平城山に攻めて残虐に殺させた。そのときに影媛が詠んだ歌が、「あをによし 乃楽の谷に 鹿じもの 水漬く辺隠り 水潅く 鮪の若子を 漁り出な猪の子(日本書紀)」である。
[編集] 諸説
- 考古学的には平群谷古墳群の変遷を考えると平群氏の興隆は6世紀中期あたりであり、物部守屋の変にさいして将として名の見える神手以降の新興豪族とする説があり、平群真鳥、鮪親子の実在は史実として認められていない