平忠彦
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平忠彦(たいら ただひこ、1956年11月12日 - )は、福島県南相馬市(旧原町市)出身の元オートバイ・ロードレースライダー。
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[編集] 来歴
全日本ロードレース選手権500ccクラス3年連続チャンピオン。端正な容貌、ダイナミックかつ緻密なライディングにより、人気と実力を兼ね備えた1980年代国内ヤマハワークスの堂々たるエースライダーだった。しかしスターにありがちな派手な言動は全く無く、穏やかな人柄で男女問わず多くのファンを獲得した。速さは勿論の事、卓越したマシン開発能力にも定評がありロードレース世界選手権にすぐれたマシンを供給しヤマハのタイトル獲得に貢献した。
1982年、角川映画『汚れた英雄』で、草刈正雄演じる主人公・北野晶夫のレースシーンのスタントを務めた。 1988年、映画『TOP DOG』にて平自身も世界GPや鈴鹿8H耐久レース参戦のドキュメントとして出演している。 1980年代に資生堂の男性用化粧品TECH21のメインキャラクターとなる。キャッチコピーは「自分は、一等賞が、好きです」。
2005年には、NHK教育テレビの「趣味悠々」・「中高年のためのらくらくツーリング入門」に出演、俳優の布施博らにオートバイを安全かつ楽しく乗る為の技術を伝える講師を務めた。この番組中では平がスクーターで「ジグザグ一本橋」を渡る見本を見せるときに失敗して落ちるという一幕があった。但し本気でトライしたのに落ちたのか、出演者に緊張感を持たすために敢えてそうしたのかは明らかではない。
[編集] 戦績
- 1980年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレースに初出場する。
- 1982年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・ランキング6位
- 1983年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラスに参戦、初の年間チャンピオン獲得。
- 1984年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・2年連続チャンピオン獲得、シーズン開幕前にはアメリカ・デイトナ200に参戦、シーズン途中にはマールボロ・ヤマハより世界GP500ccクラスに2戦スポット参戦、両レースとも6位入賞を果たす
- 1985年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・3年連続チャンピオン獲得、この年も2戦世界GP500ccクラスにスポット参戦を果たす。また、ヤマハワークスからケニー・ロバーツと共に鈴鹿8時間耐久オートバイレースに出場する。
- 1986年 - ロードレース世界GP250ccクラスにフル参戦、ランキング9位。開幕戦スペインで予選2位を獲得し周囲の期待が一段と高まるも、スタートでエンジンが掛からず後続車に激突され足を骨折。この骨折の影響と、この年YZR250の最大の欠点であった始動性の悪さに苦しめられた(普通に、まともにエンジンが掛かりスタートできる事の方が珍しかった)。ただし同じYZR250に乗り同年の世界チャンピオンになったカルロス・ラバードは常に見事なスタートを切っていた。序盤での怪我の影響もあり平のレース成績は一進一退だったが、最終戦サンマリノGPで見事に優勝を飾る。なお開幕戦の平の事故がきっかけの一つとなり、世界GPでは「押し掛け式スタート」(エンジンが停止した状態からライダーが人力でマシンを押し出してエンジンをかける)が廃止され、翌1987年から「クラッチスタート」(エンジンが始動した状態からスタート)へとスタート方式が変更されている。
- 1987年 - ロードレース世界GP500ccクラスにフル参戦、ランキング6位。チェコスロバキアGPで500ccクラスでは自身初(そして唯一の)となる3位表彰台を獲得した。
- 1988年 - 開発ライダーの河崎裕之の引退によりマシン開発が主体となる。ロードレース世界GP500ccクラス・全日本ロードレース選手権500ccクラスにはスポット参戦のみとなった。
- 1990年 - 鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝。パートナーはエディ・ローソン
- 1992年 - スポーツランドSUGOにて現役引退ランが行われた。この時のマシンはYZR500
[編集] 平と鈴鹿8耐
平は無名のプライベーター時代の1980年にチームヨシモトからホンダCB750Eで三原嗣厚と初出場している。結果はトップから50周遅れの39位(完走者の中では最下位)であった。 その後、ワークス入りを果たす平はヤマハの方針もあり2ストロークのグランプリマシンをメインにレース参戦してきたが、鈴鹿8時間耐久ロードレースの人気が急上昇したこの頃、ヤマハも本格的な4ストローク4気筒750cc市販マシンのFZ750を発表。そのプロモーションには8耐を制する事が一番と、ライダーも特別なペアで臨む事となり平ともう一人、WGPからは退いたが3度世界チャンピオンに輝いた伝説のライダー、ケニー・ロバーツとペアを組む事を決める。 FZ750をレース用に改造したFZR750は資生堂のサポートを受けTECH21カラーと言われた淡い紫色を纏い、原色ばかりのサーキットでは逆に圧倒的な存在感を示した。レースではスタートこそ出遅れるものの速さを見せつけ首位を走るが残り30分でエンジンが息の根を止める。翌1986年もフランス人GPライダーのクリスチャン・サロンとペアを組むがリタイアに終わり、1987年はマシン名をYZF750と改称して臨むも直前のフランスGPで大怪我を負い欠場、チーム監督を務めるが皮肉にも平が走らなかったこの年、優勝を飾る。1988年は当時無名に近かったマイケル・ドゥーハンとペアを組むが平のライディングで3位走行中のレース終了10分前にエンジントラブルでリタイア。1989年もアメリカ人GPライダーのジョン・コシンスキーとペアを組むが5時間過ぎにマシントラブルでリタイアと不本意な成績しか残せず、レース参戦よりマシン開発業務が主体となってきた平にとって、8耐制覇だけがレーサー平忠彦として残された悲願となっていた。 そして1990年の8耐には、シーズン序盤を怪我により欠場し世界GP500ccクラス通算5度目のシリーズチャンピオンの望みが絶たれたヤマハのエースライダー、エディー・ローソンが平と組むこととなる。最強助っ人を得たこの年が大きなチャンスであることは明らかであった。ローソンはグランプリシーズンのハードスケジュールを縫っての参戦にもかかわらず、毎年優れたグランプリマシンを開発してきた平への労に報いる全力の走りで後続との差を広げ、また平自身も見事な走りでそれに応えワークス参戦開始から6年越しに悲願の優勝を果たす。 結局この優勝を最後にワークスライダーとしての平の8耐参戦は終了した。
1995年に平は再び鈴鹿8耐に戻ってきた。自ら主宰するタイラレーシングからプライベーターとしてレースを楽しむスタンスとして翌1996年までの2年連続出場を果たす。
[編集] 平レプリカ
映画「汚れた英雄」の頃から平は赤、黒、白のヤマハワークスカラーを大胆に配色したデザインのヘルメットを着用していた。 平が人気、実力共に急成長を遂げると共に、アライヘルメットからは平のデザインを模した「平レプリカ」が販売され、ヤマハ系のライダーを中心に爆発的ヒットを飛ばす。 デザインは年代により帽体の変更などがあり多少変化したが基本的に同一。また、赤色部分がイベントによって別の色となる場合があった。現在タイラレーシングで購入可能。
- 黄色 アメリカ遠征時が最初、U.S.ヤマハの黄色と黒の通称「U.S.インターカラー」バージョン。なお鈴鹿8耐のTECH21カラー時でもヘルメットは平がペアライダーの配色に合わせる事が多く、初年度はロバーツの黄色に合わせこのインターカラーを使用した。
- 青色 資生堂TECH21カラーバージョン。8耐以外でも世界GP500ccクラスの日本GPなどでも見られた。
- 蛍光レッド マールボロ・ヤマハから世界GP参戦した年度に使われた。マシンに合わせ赤色を派手な蛍光レッドに変更、後期では額部のスポンサーロゴに合わせて赤ラインが太くなった。