ヤマハ・YZR250
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YZR250(わいぜっとあーる250)は、ヤマハ発動機がオートバイロードレース世界選手権250ccクラスに開発・投入した、競技専用二輪車両(オートバイ)の車種名。
[編集] YZR250の歴史
1985年に水冷2ストロークV型2気筒エンジンを搭載したYZR250がシーズン終盤デビュー。カルロス・ラバードの手により、1986年の開幕戦で初勝利。そのまま破竹の快進撃を続け、見事タイトルを獲得。最終戦もトップを独走するも転倒。しかし優勝は平忠彦のマールボロ・ヤマハYZRであった。
1990年、久しぶりのタイトルはジョン・コシンスキーの手でもたらされる。以降、YZR250としてのタイトル獲得は2000年のオリビエ・ジャックまで達成されていない。
それ以降、YZR250のライダーはいたものの、タイトル獲得には至らぬままYZR250の投入は中止。通算チャンピオン獲得3度でその役割を終えた。
[編集] 主なエピソード
- 1986年型YZR250は2気筒同爆(現在でいうビッグバンエンジン)であったためか始動性が極端に悪く、押しがけスタートでの出遅れが目立ち、予選での好位置を生かせない場面が多かった。唯一、カルロス・ラバードだけが神がかりのようなスタートをみせトップ争いを展開していた。'86年の開幕戦で、平忠彦がいつまでもエンジンをかけられず後続に追突され重傷を負う、という事故も発生した。平の事故を踏まえ、翌1987年からのWGPはエンジンを始動たままの状態でクラッチスタートするよう、スタート方法が変更されることとなる。
- ヤマハは時折ワークスマシンであるYZR250を実戦に投入しない方針をとることがあり、中断期間が多い車両でもある。YZR250を投入しない際にはTZ250M(M⇒モディファイの略)が登場する。ワークス仕様のTZ250である。すべてにおいてワークスマシンらしいパフォーマンスを発揮したのは原田哲也の乗った車両のみと見る向きもある。実際にヤマハはタイトル奪還を必要とする際にだけ非常に高価なワークスマシンを投入してくる。現実問題として、アプリリアなど初期状態ですでにGPキット装着されたRS、あるいはTZよりも高い性能を発揮する車両が走るWGPにおいては安価な事実上量産車であるNSR250を投入し、トップ争いを盛り上げるホンダ対してあくまで高額なワークスマシンを投入するヤマハの姿勢はレースの活性化に対しては貢献度が低いのは否めない事実である。
参考までに、TZ用GPキットの価格とRS用GPキット(市販品であるSP忠男などのキットではない。)の価格はほぼ同額である。
- 車両のストリップを見る限りでは最も手の込んだワークスマシンなのだが、その手の込んだ造りがパフォーマンスに反映されない車両である点も見逃せない。たとえば、チャンバーはフルチタン手巻き溶接なのだが、ホンダ・NSR250はプレス形成ではるかにパワーを出している。むやみに無駄なつくりの多い車両であるとも言える。その他、すべてのコンポーネントはいちいち豪華なのだが、それが性能に反映されているとは言い難い面も多い。実際松戸直樹選手などはジョリーモト製の鉄チャンバーを使用している場面が
見受けられている。