島津元久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津元久(しまづもとひさ、正平18年/貞治2年5月20日(1363年7月1日) - 応永18年8月6日(1411年8月25日))は島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男。
1387年、父・氏久の死により奥州家を継ぐ。1393年、伊久と守久の仲介役をしたことで、元久は伊久から島津氏の家督を譲られた。その後元久が薩摩国鹿児島に清水城を作ったことにより、総州家と不仲になった。
1401年、国人の渋谷氏が伊久に味方したため奥州家・総州家は絶縁状態になった。幕府は伊久側についたが、1404年に幕府の調停で和睦した。同年、元久は大隅・日向守護となった。
1409年には薩摩の守護も務めるようになり、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、明・李氏朝鮮・琉球と貿易を盛んに行なった。1411年、出陣中に病没。
奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。
[編集] 清水城
清水城は、島津元久の指示により築城された山城である。 現在の鹿児島市立清水中学校所在地に館が二つあり、その中学校の裏山一帯をもって城としていたとされる。また、城前を稲荷川が流れているが、後に川をつけかえて堀としたのではないかとする説もある。
1550年島津氏15代貴久が内城(現在の鹿児島市立大龍小学校所在地)に移転するまでの間、ここに本拠を置いた。
その後、ここに大乗院などの寺が移されていたが廃仏毀釈により取り壊されており、石橋の大乗院橋だけが残っていた。しかし、1988年昭和63年7月の洪水により橋桁が壊れ、現在は架け替えられている。
- 島津氏歴代当主(奥州家)
- 1387~1411
-
- 先代:
- 島津氏久
- 次代:
- 島津久豊