島津久豊
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島津久豊(しまづひさとよ、天授元年/永和元年(1375年) - 応永32年(1425年)1月)は島津氏第8代当主。第6代当主・島津氏久の次男。
1411年に7代当主で兄の島津元久が死去。元久は後継者を甥の伊集院熙久(初犬千代丸)と決めていたが、久豊は伊集院氏を追放し8代当主となった。
久豊の強引なやり方により、国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになった。長い争乱の末、1417年に和睦が成立。伊集院頼久(熙久の父)は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。
このようにして島津氏当主の座を実力で獲得した久豊は、1422年に総州家の島津守久を肥後国に追放して総州家・奥州家の両島津氏の抗争は終結した。
幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねた事を認め守護職を与えた。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。
この後、日向国への進出を図るも、その途中で病死。享年51。
家督は嫡男の島津忠国が継いだ。
先代: 奥州家:島津元久 |
島津氏歴代当主 1411~1425 |
次代: 島津忠国 |