岩田聡
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岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - )は、日本のプログラマ、元HAL研究所社長。任天堂代表取締役社長。
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[編集] 来歴
北海道札幌市出身。『バルーンファイト』などのプログラミングを手がけ、天才プログラマと呼ばれたことがある。北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
高校時代、電子計算機の魅力にとりつかれ大枚をはたいて購入、制限された機能の中でもプログラムを打ち込んでいったことが後のプログラマ人生の下地となる。なお、この頃からその才能は光っていたらしく、その世界では知られた存在であった。
[編集] HAL研究所時代
大学在学中、コンピューターに触れたくてアルバイトをしていたデパートのコンピューター売り場の先輩に誘われ、HAL研究所の立ち上げに参加。ファミコン時代には、『ゴルフ』、『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当した。次第に部下も増え、全体の把握が難しくなったことから「言いたいことは言い合おう」として任天堂社長になってもなお続けられている部下との面接(HAL研時代までは半年に一度)をこの頃始める。管理職になるにつれ当然プログラムを打つ時間がなくなるので、休日出勤をして土日に嬉々として打っていた。
1992年、HAL研究所が多額の負債を抱えて和議を申請した際、経営建て直しのため代表取締役に就任した。このとき岩田を社長に指名したのは当時任天堂の社長であった山内溥だったといわれている。そして社長として経営手腕を発揮し、『星のカービィ』などのヒット作品を生み出し、経営再建を成し遂げた。
なお、『MOTHER2』が開発中止寸前だった時期にプログラマ、プロデューサーとして参加した。「今のプログラムをいかすと3年かかります。一から作り直すと半年で出来ます」と発言し、プログラムをほぼゼロから半年で作り直した手腕が高く評価されたが、のちの『MOTHER3 豚王の最期』(NINTENDO64版)は、逆に開発中止を決める立場になった。
[編集] 任天堂入社
2000年、任天堂の山内溥社長(現相談役)に経営手腕を買われて任天堂入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、42歳のときに山内から指名を受け、創業家以外から初めて代表取締役社長に就任した。3代続けての山内家一族経営に加え、他の古参取締役、山内の息子を押し退けての大抜擢は異例中の異例であった。
彼はHAL研究所時代から、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー)に飽きられ、ゲーム初心者(今までゲームに触ったことのない人)にとってもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた(事実、1997年を頂点にゲーム人口が少しづつ減少してきていた)。
2004年12月、岩田聡率いる新生任天堂は、失われたゲーム人口を取り戻し、さらに拡大させるための携帯ゲーム機として「ニンテンドーDS」を発売した。ニンテンドーDSは、二つの液晶画面とマイク端子、そして携帯ゲーム機初のタッチパネルを持ち、初心者には直感的でわかりやすい操作を、熟練者には新鮮で驚きにあふれた操作感覚を提供するゲーム機である。このゲーム機はクリスマス商戦真っ只中に投入されたこともあって年末年始のみで150万台を売り上げた。
2画面のうち、下画面にタッチパネルを活用し、ゲームに今まで触れたことがなかった女性たちやお年寄りたちにも興味を持ってもらえるような全年齢志向のソフト群「Touch! Generations」を立ち上げた。これは今までゲーム機に触れてこなかった「ゲーム初心者」の獲得のみならず本体売り上げをも牽引し、事実上のライバルであるPSPに日本国内ではハード・ソフト両方の販売台数で優位に立つ事に成功した。今後、ニンテンドーDS用ウェブブラウザーやワンセグ受信用端末、Touch! Generationsの新作などを発売し、ゲーム層の幅をもっと広げることを考えている。
2006年4月20日に、一度開発者の立場で中止した『MOTHER3』の発売を任天堂社長という立場で実現する。製品としてようやく日の目をみた『MOTHER3』は彼の思想を強く反映した2Dドットの素朴な面白さがあるゲームになっている。岩田は「MOTHER3を一回中止にしたことはいまのDSやWiiにつながっている」と強調する。
そして2006年11月19日に、次の一手として新機軸の新世代ゲーム機「Wii」を投入。このことについて、「夕刊フジ」(2006.1.16発行)のインタビュー記事内で「自分の存在理由を賭けた戦い」と表現した。その一環か、2006年からは株主総会での全テキストweb上で公開するだけでなくその映像まで配信し、社長自らWii開発者にインタビューをして任天堂HPで公開するなど、他の企業では見られない積極的なPR展開を繰り広げている。元々、「ほぼ日刊イトイ新聞」で頻繁に糸井重里と対談を行ったり、社長就任前からE3で英語のスピーチを行ったりと前面に出てくることが多かったが、更にその動きを自ら加速させていると言える。
[編集] その他
- Macintoshユーザーで、プレゼンテーションでは「Keynote」を使用している。糸井重里にMacintoshの使い方を教えたり、ほぼ日のPC環境の整備に協力していることから、「ほぼ日刊イトイ新聞」において「電脳部長」という名前で登場している。
- 古くはMSX2でMacintoshのようなGUI環境を実現するHALNOTE(HAL研究所より1987年に発売)の開発にも関わっている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ほぼ日刊イトイ新聞 - 社長に学べ! 第2回 - 岩田聡と糸井重里の対談