岩城常隆
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岩城常隆
- 戦国時代の岩城氏の当主。
- 安土桃山時代の岩城氏の当主。
[編集] 岩城常隆 (戦国時代)
岩城 常隆(いわき つねたか、生没年不詳)は戦国時代初期の人物。陸奥の岩城氏当主。岩城親隆(先代)の子で岩城由隆、岩城盛隆、植田隆道、女子(田村義顕妻)、女子(那須政資妻)の父。大館城城主。下段の常隆は6代目の子孫にあたる。
佐竹氏の内紛の際には佐竹義舜に味方し、山入氏の討滅に協力した。さらに白河結城氏や古河公方家の内紛に乗じ、これに介入し勢力を広げ、岩城氏の全盛期を築きあげた。のちに白河結城氏の求めに応じ那須氏を攻めたものの、のちに縁戚関係を結んで那須氏と和睦している。
[編集] 岩城常隆 (安土桃山時代)
岩城 常隆(いわき つねたか、1567年(永禄10年) - 1590年(天正18年)7月)は、安土桃山時代の武将。岩城氏当主。岩城親隆の子。左京大夫。
父の親隆が佐竹氏に臣従したとき、その家督を継ぐことは保障されたが、その代償として佐竹義重の三男である岩城貞隆を養嗣子とすることを余儀なくされた。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣することで所領を安堵されたが、まもなく病に倒れ、鎌倉で死去した。
常隆には政隆という実子がいたが、佐竹氏に追われて祖父の実家である伊達氏に逃れる。後に伊達姓に復して仙台藩一門(岩谷堂伊達氏)となった。また、その子孫の1人である岩城隆恭が後に岩城氏に入嗣して亀田藩主になっている。岩谷堂伊達氏は明治期に岩城姓に復姓した。