岡田忠之
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岡田忠之(おかだ ただゆき、1967年2月13日 - )は、茨城県水海道市出身のオートバイ・ロードレースライダー。
血液型はO型。愛称はTADY(タディ)。
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[編集] 来歴
[編集] デビュー~全日本時代
高校卒業後、筑波サーキットでロードレースデビューを果たす。当時は筑波サーキットのコースマーシャルをしながらのレース活動であった。
1988年、国際A級に昇格。TS関東(現・アイ・ファクトリー)から全日本ロードレース選手権GP250クラスに参戦。その走りが認められ、翌1989年にホンダのサテライトワークス格のキャビンレーシングに加入、ワークスマシンNSR250を手にするや全日本GP250チャンピオンに輝く。1990年にホンダワークスのTEAM HRCに移籍、1991年まで全日本GP250を3連覇する偉業を成し遂げる。
1992年には4連覇を期待されるも、ライバルの原田哲也(ヤマハ)にタイトルを奪われランキング2位。しかし4年間の活躍を認められ翌年からのWGP(ロードレース世界選手権・現MotoGP)参戦の切符を手にする。また、この年の鈴鹿のレースは原田との激しい戦いの末同着優勝、ファンの間では伝説となっている。
[編集] 世界グランプリ時代
1993年念願のWGP(GP250クラス)進出を果たすも、同じく世界にステップアップした原田哲也が参戦初年度にチャンピオンになったのに対し、岡田は1995年までの3年間に2勝するにとどまった。その上、全日本時代からライバルで同じホンダに所属する伊藤真一が岡田と同時に世界選手権に進出したが、伊藤が参戦するのは世界最高峰のGP500クラス。岡田自身も最高峰クラスに参戦したいのは当然であるが、それに見合う結果が出ていなかった。
そんな岡田の転機となったのが1995年の鈴鹿8時間耐久ロードレースだった。岡田の所属するホンダは鈴鹿8耐優勝をWGP・GP500クラスのタイトルと同じ価値として捉えており、岡田にとってはクラスアップへ向けた絶好のアピールの場であった。そしてアーロン・スライトとのペアで挑んだ岡田は見事優勝を達成、翌年からのGP500参戦を現実のものとする。
1996年開幕戦、岡田はGP500にデビュー、ポールポジションを奪ってみせた。ホンダの主力・V型4気筒のNSR500に比べ非力なV型2気筒のNSR500Vでの参戦ながらランキング7位を獲得。翌1997年、活躍が認められNSR500を与えられる。インドネシアGPでは、当時圧倒的な強さを誇る王者・マイケル・ドゥーハンに競り勝ちGP500初優勝を達成、ランキングは2位まで上昇した。
GP500・4年目の1999年、岡田は3勝を上げランキング3位。また、アレッシャンドレ・バロスとのペアで臨んだ鈴鹿8耐でも優勝、2勝目を記録し自身最高のシーズンとなった。しかし2000年は一転して不振に陥り、日本GP(鈴鹿)の3位が最高のランキング11位。伊藤との初ペアで挑んだ鈴鹿8耐もフリー走行での転倒で足首の靭帯を断裂、決勝への出場を断念(代役は鎌田学)するなど決して良いシーズンではなかった。そしてこの年を最後に岡田はWGPから撤退する。
[編集] SBK~シリーズ引退後
WGPを離れた岡田は2001年、ロードレース界のもう一つの世界選手権・SBK(スーパーバイク世界選手権)に参戦する。鈴鹿8耐での実績が示すように岡田のスーパーバイクでの実力は定評がある。心機一転期待されたシーズンであったが結果は未勝利に終わり、チームメイトで前年チャンピオンのコーリン・エドワーズとは水をあけられた。また、前年の雪辱を晴らすべく必勝を誓った鈴鹿8耐ではトップ争いの最中に自ら転倒、2位に入るもそれは岡田の望んだ結果ではなかった。
2001年全日本ロードレース選手権最終戦鈴鹿・SB(スーパーバイク)クラス。スポット参戦で2位に入ったこのレースをもって岡田は第一線を退き、シリーズ戦からの引退を表明。翌年からの全日本TEAM HRC監督就任が合わせて発表された。
その後、ホンダのMotoGP助監督やBSB(イギリススーパーバイク選手権)監督を歴任。主な弟子には玉田誠、ニッキー・へイデン、清成龍一がいる。2006年に宇川徹に代わってホンダMotoGPテストライダーに。ホンダのタイトル奪還へ縁の下の力持ちとなっている。
シーズンは引退しても鈴鹿8耐には毎年出場しており、これは同い年のライバル・伊藤真一が未だに現役ライダーとして活躍していることに対する対抗意識があるものと思われる。
また、日本のMotoGP放送解説者(~2004年:NHK-BS1、2005年~:日テレG+)としても活躍。辛口解説者として知られ、特に前述の弟子に対してのコメントは厳しいものがある。
[編集] 主な戦績
- ロードレースデビュー(ノービス)
- ジュニアに昇格
- ジュニアGP250ランキング2位
- 1988年 - テクニカルスポーツ関東/ホンダRS250R
- 全日本ロードレース選手権GP250ランキング14位
- 全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン
- 全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン
- 1991年 - TEAM HRC/ホンダNSR250
- 全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン
- 1992年 - TEAM HRC/ホンダNSR250
- 全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位
- 1993年 - /ホンダNSR250
- ロードレース世界選手権GP250ランキング8位
- 1994年 - /ホンダNSR250
- ロードレース世界選手権GP250ランキング2位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 18位 ()(TEAM HRC/ホンダRVF/RC45)
- 1995年 ー/ホンダNSR250
- ロードレース世界選手権GP250ランキング4位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (アーロン・スライト)(TEAM HRC/ホンダRVF/RC45)
- 1996年 - レプソル・ホンダ/ホンダNSR500V
- ロードレース世界選手権GP500ランキング7位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (アーロン・スライト)(カストロール・ホンダ/ホンダRVF/RC45)
- ロードレース世界選手権GP500ランキング2位 (1勝)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 6位 (アーロン・スライト)(カストロール・ホンダ/ホンダRVF/RC45)
- 1998年 - レプソル・ホンダ/ホンダNSR500
- ロードレース世界選手権GP500ランキング8位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 3位 (コーリン・エドワーズ)(カストロール・ホンダ/ホンダRVF/RC45)
- 1999年 - レプソル・ホンダ/ホンダNSR500
- ロードレース世界選手権GP500ランキング3位 (3勝)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (アレッシャンドレ・バロス)(ラッキーストライク・ホンダ/ホンダRVF/RC45)
- 2000年 - レプソルYPF・ホンダ/ホンダNSR500
- ロードレース世界選手権GP500ランキング11位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 決勝不出走 (伊藤真一/鎌田学)(チーム・キャビン・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- 2001年 - カストロール・ホンダ/ホンダVTR1000SP-2
- スーパーバイク世界選手権 ランキング8位
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 2位 (アレッシャンドレ・バロス/伊藤真一)(チーム・キャビン・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- この年をもってシリーズ戦から引退
- 全日本ロードレース選手権 TEAM HRC監督
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 2位 (玉田誠)(チーム・キャビン・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- ロードレース世界選手権 レプソル・ホンダ助監督
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (亀谷長純)(Team桜井ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- イギリススーパーバイク選手権 HMプラント・ホンダ監督
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 9位 (亀谷長純)(RUNA阪神タイガース桜井ホンダ#80/ホンダCBR1000RR)
- イギリススーパーバイク選手権 HMプラント・ホンダ監督
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 34位(亀谷長純)(ホンダDream Team桜井ホンダ 74/ホンダCBR1000RR)
- HRC MotoGPテストライダー
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース 4位(出口修)(セブンスター・ホンダ11/ホンダCBR1000RRW)