山口誓子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年11月3日 - 1994年3月26日)は京都府京都市出身の日本の男性俳人。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。
「新興俳句運動」の指導者的な存在。
[編集] 略歴
1901年、京都府京都市に生まれる。その後、東京や樺太に渡る。帰洛した後、京都一中を経て旧制第三高等学校へ進む。昔から俳句に関心を持っていた誓子は、”京大三高俳句会”へ入会。その時の学友だった日野草城の誘いが契機で、「ホトトギス」へ投句し始める。本格的に句作を始める。
1922年、高浜虚子と出会い師事する。同年、東京帝國大学法学部に入学した誓子は、”東大俳句会”に参加。水原秋桜子にも出会い、互いに影響を与え合う。1926年、東大を卒業後、大阪住友合資会社の本社に入社。しかし1940年頃、胸部に疾患が悪化し始め、1942年に勤続16年目で退社。
しかし、「ホトトギス」への投句は続け虚子の指導は続いた。雑詠欄で注目を浴びはじめた誓子は、浅井波津女と結婚した翌年の1929年「ホトトギス」の同人となる。その後、水原秋桜子や高野素十、阿波野青畝とともに『四S』の1人として全盛期を築き、昭和初期の俳壇を賑わせる。
1932年、第一句集『凍港』を刊行する。俳句を学ぶための実践的な本であると賞賛を浴びる。1935年に刊行した句集『黄旗』を契機に、「ホトトギス」を離れ「馬酔木(あしび)」に同人として参加。一心に季語を含める伝統的な俳句の基礎である有季定型を終始追求し続けた。桑原武夫の『第二芸術論』に反発し、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志し、新興俳句運動を起こす。1948年「天狼」を創刊。廃れかかっていた伝統俳句の戦後勃興に寄与した。
1957年より朝日俳壇の選者を務める。自宅のあった西宮から新幹線で東京の朝日新聞社に赴き、選を行った。その時、新幹線の車窓から詠んだ俳句が「窓際俳句」と呼ばれる。
それまでの文化的な功績が評価され、1987年には芸術院賞を受賞し、1992年には文化功労者として表彰される。 1994年、92歳で死去。誓子の遺産は神戸大学に寄贈された。
山口誓子が住んでいた屋敷は阪神・淡路大震災で倒壊し、代わりに句碑と記念碑が建てられている。現在、屋敷は神戸大学六甲台キャンパス内に再現され、神戸大学に山口誓子記念館として不定期に公開されている。
[編集] 句集
- 『凍港』(素人社、1932年)
- 『黄旗』(竜星閣、1935年)
- 『炎昼』(三省堂、1938年)
- 『七曜』(三省堂、1942年)
- 『激浪』(青磁社、1946年)
- 『断崖』
- 『遠星』(創元社、1947年)
- 『光陰』
- 『晩刻』(創元社、1947年)
- 『妻』
- 『青女』(中部日本新聞社、1950年)
- 『方位』(春秋社、1967年)
- 『青銅』(春秋社、1967年)
- 『雪嶽』
- 『紅日』(明治書院、1991年)
- 『一隅』(春秋社、1977年)
- 『不動』(春秋社、1977年)
- 『遍境』
- 『和服』(角川書店、1955年)
- 『構橋』(春秋社、1967年)
- 『大洋』(明治書院、1994年)
- 『新撰大洋』(思文閣出版、1996年)